『マイノリティ・レポート』
P・K・ディック原作というより、小説の設定と登場人物の名前だけ借りたスピルバーグ&トム・クルーズの映画。つまらなかったわけではないけど、だからといっておもしろくもなかったというか、わたしのツボにはまるおもしろさには欠けるというべきか。映像は手間かけてつくってあるけど、それに伴う何かがないと、「だから?」って感じで。
予知能力者を使うことによって殺人を未然に防ぐことが可能になった未来世界。犯罪予防局のアンダートンは、自分が殺人をおかすという予知を知ってしまう。身に覚えのないアンダートンは、仲間の局員から追われる身となる。果たして予知は正しいのか?
ストーリー展開はごくありきたりなエンターテイメント・ミステリィですが、なまじ頭を使うと「?」があふれだすので、そーいうものだと受け入れて観た方がいいかも。
予知された犯人と被害者の名前がボールにきざまれてダクトをとおってごろごろころがって出てくるところとか、無駄なガジェットには遊び心も感じられますが、目のモチーフとか意味をもたせた割には後半の物語への影響が全然出てこなかったりと中途半端な感じ。
登場人物としては、サイケなハッカー野郎が好きですね。「あの映像」は当然没収されたんだろうけど、もちろんバックアップコピーはどこかに保存されて、闇マーケットに流してがっぽりもうけたかと思うと、ある日突然「わたしは神に会った」とか宗教に走っちゃったりとか、なんかそーいうキャラクター的バイタリティを感じるじゃないですか。
それにしても、ほんと、嫌になるほど「スピルバーグ&トム・クルーズ」という真っ当印が押された映画。わたしがわくわくする映画じゃないんだなあ。
『8人の女たち』
仏映画界をゆるがしたという、豪華絢爛、新旧人気女優の共演作。
古き良きハリウッド映画へのオマージュがこめられているこの作品は、虚構が虚構として大胆に使われた結果、普遍的な価値をもつ作品に仕上がっています。
1950年代のフランスのとあるお屋敷。クリスマスイブの朝、一家の主が自室で殺されているのが発見される。雪に閉ざされたお屋敷に居合わせたのは、妻、長女、次女、義母、義妹、妹、メイド、料理人の8人の女たち。犯人は誰か? 疑心暗鬼の舌戦のはて、主と彼女たちのスキャンダラスな秘密が次々と暴かれていく。さて、真相はいかに。
と、あらすじを書くと、なんだかおどろおどろしそうですが、実際はコミカルで、妖艶で、パワフル。
なにせ舞台はお屋敷の中だけという、完全ワンセット。それでいて、観客をまったく飽きさせないのは、脚本の妙&女優さんたちの名演に尽きます。カトリーヌ・ドヌーヴやイザベル・ユペール始め、おばあちゃんのダニエル・ダリューまでが一曲ずつ歌とダンスを披露するという、やや脱力系ミュージカル風味も効いています。どの女優さんも個性が光っていて、見物。ひっつめ髪に眼鏡姿で登場のイザベル・ユペールはすごい!
また、ファッションがとってもお洒落で、それぞれの役の個性に合わせたカラーと50'sテイストの衣装で頭の先からつま先まで、隙のないコーディネート。それだけでも女性は観ていて楽しいと思います。(一番若い透けるような肌の次女は、グリーン系のセーターとパンツ姿で、これって絶対日本人じゃ似合わない色ですよね。)
個人主義の文化をひしひしと感じたりもしますが、でも、十分普遍的な「女」とか「人間関係」を感じさせますよね。あまり古い映画を知らないので、オマージュの「オ」の字くらいしかわからないのがちょっと残念ですが。なんというか、こそこそっと口コミしたい感じ。
それにしても、こんな映画をつくってしまうオゾン監督ってすごいと思います。
『ハリー・ポッターと秘密の部屋』
ご存じハリー・ポッターシリーズ第二弾。
原作と映画との関係がこれほど上手くいっているケースも稀ではないでしょうか。まあ、熱狂的な原作ファンがどうみているのかはわからないのだけれど、個人的には原作の雰囲気そのままに非常に上手く映画化しているなあと思います。
前作に比べて設定の説明をしなくていい分、ストーリーに集中した展開ができるので、全体の流れもいいですね。もちろん、原作のあのひたひたとした恐怖よりはアドベンチャー寄りという印象ではありますが、きちんとツボを押さえた脚本になっています。
ハリー・ポッター役の子がずいぶん成長していて、観る前は違和感があるかなと思っていましたが、実際の映像では、逆に演技に深みがでていて、大物との対峙場面も迫力がでていてすばらしかったです。蛇語をしゃべるシーンなんて独り相撲なので難しいと思うのですが、雰囲気がよくでていました。ロンもハーマイオニーも前作より役柄としての自然な演技が出てくるようになっていて、いいですね。
今回実際映っている時間は少ないのだけれど、強烈な個性をかもし出していたマルフォイ・パパがなかなかおいしいです。やっぱりジュニアとは格が違いますからね〜。
ロックハート先生がケネス・ブラナーとは全然気が付きませんでした(^^;。(エンドロールの後に見のがせない一コマがあるので、これから観る方は最後まで席を立たないように(笑)。)
期待通り、はずれなし、しかも前作より好印象。しかし、ほんとに7本撮るのかしらん。。。
『木曜組曲』
恩田陸のミステリ小説『木曜組曲』を、『月とキャベツ』の篠原哲雄監督が映画化した作品。
数々の原作付き映画を観て来たけれど、これほど「原作者冥利に尽きる」と思った作品は他にはないかもしれません。たいていは、映像は「別物」として評価するというところに落ち着くわけですが、これはもう原作のエッセンスをそのままに、恩田陸作品の良さとは何ぞや? というツボをこれ以上ないという位にかっちり押え、原作をきれいに生かして展開し、さらに一筆付け加えても破たんせずに見事に物語世界を描き切っています。もちろん、原作自体が芝居を意識した仕立てだったことも幸いしているのでしょうが、とは言え、ほとんど洋館の一室から動かないこの展開では、普通の映像化では「動きがない」と言われかねないところです。それを、緊張感を保ちながら、丁寧なカメラワークで繊細で美しい映像を綴っていく。篠原マジックですね。
スタッフ側もさることながら、女優さんの演技がまたすばらしい。謎の死を遂げた天才耽美派作家、重松時子役に朝丘ルリ子、時子の永年の担当編集者で同居人だったえい子役に加藤登紀子、時子の異母妹で作家の静子役に原田美枝子、静子の異母姉妹でノンフィクション作家の絵里子役に鈴木京香、時子にあこがれて作家になった親類のミステリー作家の尚美役に富田靖子、同じく純文学作家のつかさ役に西田尚美。これだけのメンツをそろえられたところで、この作品の成功の一条件はクリアされていたのかもしれませんが。全員お見事としかいいようがないです。生前のシーンとして原作にないシーンがでてきますが、朝丘ルリ子の時子役は人物の深みがでましたし、加藤登紀子の重みのある演技は、映像を引き締めています。ラストの監督の演出で唯一ひっかかるのは時子の最期のシーンで、その前の『蛇と虹』のくだりと加藤登紀子の演技で明白なので、ややリダンダントで逆に余韻を消してしまう方向に働きかねない気がしましたが、やっぱり映画的には必要なのかな。
シビアな心理劇のさなかに、登場人物がおいしそうなものを食べたり飲んだりしているシーンが多いので、空腹の時に観てはいけませんし、観終わって自分の食に対する欲求を満たせる状態で観た方がいいです(^^;)。
すばらしい映画なので、恩田陸ファンは必ず観てほしいですし、逆に映画を観て恩田陸に興味をもってもらえたらうれしいですし、とにかくひとりでも多くの方に観ていただきたい作品です。
『エピソード2 クローンの攻撃』STAR WARS EPISODE II 〜ATTACK OF THE CLONES
前売を使わないうちに公開が終わってしまう〜、とあせって、今更ですが、観に行きました。
三部作の真中はどーしても、「つなぎ」的な側面がでてしまうものですが、これもご多分にもれず、いまいちな感じ。
最初の30分のタルいことタルいこと。戦闘シーンとのコントラストを意識したのかもしれませんが、ちっとも世界に入り込めない。アナキンが出てきて、ものの3分で「こいつ、でーーーーっキライ!」と思ってしまった、という個人的な心の狭さも、つまらなく感じた一因ではありますが。
シーン、シーンでお金も労力も惜しまず完璧目指して作りました、という執念は伝わってきますが、だからといって映画としておもしろいかというと、それはまた別で。「来るぞ、来るぞ・・・来た!」という”お約束”の楽しさは比較的好きな方ですが、これだけ、次のシーンの予測がついてしまうと、手に汗握るハラハラドキドキ度がまるでないですね。(エピ1のポッドレース並みのスリルを感じられるシーンもないし。)まあ、あくまで誰でも楽しめる大エンターテイメント作品であって、奇想天外さを売りにしているわけでないことは重々承知してはいますが。
ヨーダ奮闘シーンは「おおっ!」って感じだったけど、でも、あのクリストファー・リーをみていると、一瞬「あれ、わたし今なんの映画みてたんだっけ?」と混乱してしまう(笑)。(『ロード・オブ・ザ・リング』を観た人にはまるでデジャブーでしょ。)
楽しめたのはオビ=ワンのまぬけ顔くらいでしょうか。あの、しょーこりのない凡庸さはエピソード1のマスターとの関係を見た後だと許せてしまう(笑)。(まあ、アナキンがぐれるのもアナキンのせいばかりとは言えないかも(^^;。)
アナキン&”誘惑”アミダラ姫の悲恋物語もどーでもいいしなあ。もっともアナキンが嫌いで、アミダラ姫の品の感じられない話し方もイヤ、となると結局二人しか出てこないシーンをみていて楽しいわけがないんですが。なによりラブシーンと言えば、「I know」以上の決めせりふはそうそうないですからねえ。
「エピソード1」はもう一回みたいけれど、「エピソード2」は一度で十分という感じ。
『ロード・オブ・ザ・リング』The Lord of the Rings〜The Fellopship of the Ring
映像化不可能と言われていた、あのファンタジーの金字塔『指輪物語』、その映画三部作の第一部が公開となりました。はっきりきっぱり全然期待していなかったのですが、まずは「よくやった」と製作陣を誉めたいところです。観客を無理なく中つ国の世界に引き入れ、あの膨大な物語りを上手くまとめて、3時間近く飽きさせることなく観せる。これだけでもすごいことだと思うし、映像もとてもきれいでした。まあ、アドヴェンチャー要素が過大だし、圧縮された情報量の多さに観終わった後ぐったりはしましたが、楽しめたことは確かです。歴史的大作として時代を超えて残る映画だろうなあと思います。
映画としての出来がいい以上、原作との差違をあげつらうことはあまり意味がないと思います。ただ、「小説と映画は別物だ」という大前提は愕然とするほど厳然たるものです。視点とか、スピード感とか、楽しむための作法がまったく違う。加えて、読者の数だけ異なる『指輪物語』があるわけで、読者の想像の産物、世界の広がり方、物語の受取方、その多様性がこの物語の深さだと思っています。それが、この映画によって枠がかせられる、イメージが固定化されることをわたしはおそれるし、例えばフロドといえばイライジャ・ウッドの顔しか浮かんで来ないとしたら、それはとてもさみしいことだと思うのです。もちろん、この映画がなければ一生原作を読まなかったかもしれない人が原作を手にした、ということも多々あるだろうし、その人のイメージは映画とは無関係なところで想像の翼を羽ばたかせるかもしれないけれど。
あとピーター・ジャクソン監督の「友情と自己犠牲というテーマに惹かれたんだ」という言葉には、わたしは違和感を感じました。言葉の抜粋のされ方と翻訳が悪いのかもしれないけれど。自己犠牲という言葉には、”目的のためなら自らを犠牲にすることこそが善”というイメージが付きまとうけれど、闇雲な自己犠牲は単なる自己陶酔だし、各人がそれぞれ背負うものをもち、かつ、寄り掛かり合いでは関係としての”友情”をもった上で、それぞれ己の果たすべき役割を果たすことにこそ意義を感じる物語だとわたしは思うのだけれど。
というわけで、まあ安っぽい情訴えドラマにしてほしくないなあというのがわたしの願いなんですが、映画だとどーしても最低限の盛り上げ場面は必要なのかな。第一部も泣かせのシーン(&ラブラブシーン)がありましたが、さて、第二部、第三部はどうなるのでしょうね。
原作への思い入れが深すぎて(といっても細部は忘れていたくらいで、けっしてマニアではないのですが、自分の核、土台となったものだから)、一映画ファンに徹することができず、純粋に映像だけを評価することができないのですが、少なくとも映画としての出来は良いと思うので、原作ファンもそうでない人も観ましょう。(原作ファンは些細なことでおこっちゃいけません。たとえ「馳夫さん」が「韋駄天」と呼ばれようとも(--;)。)そして、原作を読んだことがない人は、原作も読んでいただけるとうれしいですね。(原作ファンは言われなくても読み返したくなるはず。)