2000年8月



『パヴァーヌ』キース・ロバーツ 扶桑社
 サンリオ文庫末期に出版されたため、長らく「幻の名作」として名を馳せていた本書がめでたく復刊されました。
 数年前にお借りして読んだことはあるのですが、内容が断片的にしか記憶に残っていなかったため、これを機に再読してみました。

 1988年にエリザベス一世が暗殺され、スペインのフェリペ国王がイギリスを占領。カトリック教会=「戦闘の教会」が権力を牛耳る暗黒時代が20世紀中ばまで続き、テクノロジーの発達が阻害されていたもう一つの世界。
 物語は6つの章にわかれ、蒸気機関車で運送業を営むストレンジ家の機関士ジェシーの物語にはじまり、信号手、修道士などそれぞれの主人公たちの生き様を通してこの世界の仕組みが語られ、やがて教会支配の崩壊をもたらす女領主の反乱の物語に至る。

 ラストで明らかになる”歴史を司ってきた者たちの意図”はその重みに押し潰されそうになるほどの衝撃ですが、物語全体のトーンはかなり地味です。一人の主人公を中心に次々事件が起こる、というタイプのストーリー展開ではないので、読み慣れていない人には途中退屈かもしれません。しかしながら、一つの世界を描きだすというのはこういうことなんだよね、しみじみ思ってしまうくらい、今自分のいる世界と比べて確かに同等の質量感をもった世界がここに展開されています。

 この作品に似たテイストとして思い起こされるのは、個人的にはジョン・クロウリーやスティーヴ・エリクソン。
 好きな人にはたまらなく好きな作品だけれど万人受けはしないだろうなあという感じはしますが、他では味わえない魅力をもつ作品という意味ではやはり唯一無二なのだと思います。

 自分の記憶に残っていたのは信号手の話(だけ)だったのですが、今回読み直してもやはりこの章が一番のお気に入りでした。”独自のギルドを形成し情報伝達を一手に担う信号手たち”という設定自体にまずわくわくしますし、信号塔を見上げていた村の少年が信号手になるまでのリアルな描写、そして彼が単身赴任した辺鄙な信号局で出会う幻想的なストーリーも鮮烈です。

 解説をみるとキース・ロバーツの作品は意外とたくさん書かれているにも関わらず、全然邦訳されていないのですね(;_;)。なにはともあれ『パヴァーヌ』に描かれていたテーマをさらに発展させているという”The Chalk Giants”は、なんとしても読みたいです。



『ウィーン薔薇の騎士物語1 仮面の暗殺者』『ウィーン薔薇の騎士物語2 血の婚礼』
『ウィーン薔薇の騎士物語3 虚王の歌劇』高野史緒 中央公論新社Cノヴェルズファンタジア

 『ムジカ・マキーナ』でデビューし、続く『カント・アンジェリコ』とゴチックなパラレル・ワールドを展開し、『ヴァスラフ』では静寂な空間にパッションが舞うサイバースペースを描きだした高野史緒が「なぜにCノヴェルズ???」という疑問が払拭しきれず、今まで読むのをためらっていました。(手に取ってみた途端にハートマークが舞っているオクタヴィアンのせりふが目に留まった日には、やっぱりひいてしまうものが・・・(^^;。)
 しかしながら、読んでみると、さすが高野史緒。むちゃくちゃおもしろいんですわ。(まあ、言うなれば「企画勝ち」(笑)。)

 時は世紀末ウィーン。名門貴族の子息でありながら、音楽の道に進むべくウィーンへと家出してきたフランツは、ジルバーマン楽団にヴァイオリニストとして採用される。この純真な美少年フランツが、ふとした拍子に皇太子暗殺計画を企む男女の会話を聞いてしまったことを発端に、様々な情報が交錯する中で人々の早とちりから滑稽な喜劇を生み出してしまう。
 この物語は、R.シュトラウスのオペラ『薔薇の騎士』を下敷きにしていますが、オペラのストーリーに含まれるある種のばかばかしさを逆手にとり、きちんとデコレートされたすれ違いパターンが展開され、観客を笑いの渦に巻き込んでしまいます。お見事。

 第2巻は前巻のドタバタ劇とうってかわってタナトス漂う吸血鬼もの。「吸血鬼を呼ぶ曲」と呼ばれるハンガリーの舞踏曲チャルダーシュを演奏したフランツ少年の目の前で死人が・・・。(のっけから「Cノヴェスズってこういうのもありなの?」っていうプロローグですが(^^;。)
 第3巻ではジルバーマン楽団が誇る「薔薇の騎士四重奏団」がルートヴィッヒ二世の御前演奏会オーディションに参加することに。しかし強力ライヴァル出現。な〜んと若かりし頃のルートヴィッヒ皇帝のそっくりさんがワグナーを歌ってしまうんですね。

 美少年も美青年もぞろぞろ出てくる中で、元締めというべきジルバーマン団長もいい味だしています。私の一番のお気に入りは「お兄ちゃん」ことルドルフ皇太子とトビアスのコンビですけど。

 『ムジカ・マキーナ』の「魔笛」事件がでてきたりファンサービスもしっかりありますね。

 さて、次の題材には何をもってくるのか、次巻2001年1月発売が待たれます。



『猫の地球儀 焔の章』『猫の地球儀 その2 幽の章』秋山端人 電撃文庫
 友人が強く薦めなければまず一生涯読むことはなかったと思う電撃文庫本ですが、これが意外や意外「やられた!」という感じ。

 「トルク」と呼ばれるこの世界は宇宙に浮かぶコロニーみたいな場所で、知性をもつトルク猫たちが住んでいる。トルク猫は額に生えた電波ヒゲで言語のかわりに電波を操り、大昔に滅んだ「天使」の遺物を利用しながら暮らしている。社会を牛耳っているのは「大集会」という宗教集団。
 2匹の孤独なトルク猫、「スパイラルダイバー」という戦士・焔(ほむら)と「大集会」の教義に背く異端者・幽(かすか)。「スパイラルダイブ」というのは戦闘ロボットを電波で操り命を賭して闘う競技で、そのチャンピオンとなった焔を幽は私闘で負かしてしまう。焔は幽へのリベンジを誓うが、幽が追っているのは「スカイウォーカー」に代々受け継がれている禁断の夢、すなわち地球儀へ降りることだった。二人の確執の間で、狂言回しの役を演じる、焔にあこがれる脳天気娘・楽(かぐら)。愛すべき猫たちの運命やいかに?

 もしかしてSF? と思いながら読み進めるうちに、「スパイラルダイブ」の戦闘シーンに突入。舞台となる螺旋階段(スパイラル)は巨大な空洞で、その天井のカタパルトから射出された2メートルあまりのロボットが刀振り回して闘っちゃうんですよ。しかもコマンド打ってるのは猫! ロボットの中に入って操縦してないところがミソで、猫の反射神経ならロボットしがみつき態勢もOKなわけですね。ここでなんか一気にはまってしまったような気がします(^^;。
 しかしながら、もちろん単なる戦闘物ではありません。二巻では、社会が許さない夢を追ってしまった天才が周りを傷つけながらもそれでも溢れてしまった夢を追い求める、という幽の物語が前面に出てきます。

 「夢」っていうのは、あこがれているだけなら美しいのけれど、それを実行に移そうと思ったら、たちまち自分が属する現実との軋轢が生まれるわけで、それに気が付かないのはただのお子ちゃまでしかなく、「それでも前に行く」という苦難な道のりをあえて選んだごく少数の人間の、時に負の方向のエネルギーをすら包含した生き様に、凡人は打ちのめされてしまったりするわけですよ。(それを純粋な形で取り出したのが『ライト・スタッフ』や『オネアミスの翼』じゃないかと思うわけで、読みながらこれらの作品を思いだしていました。)
 と、このあたりのことがしっかり押さえられている物語によもやこんなところで出会うとは思っていなかったもので、幽の物語のラストで私は不覚にも泣いてしまいました。(エピローグはいらなかったんじゃないかと思いますが。)

 文章とか構成とか私の好みとは相入れないところもありますが、それでも、この作品はお気に入りです。
 ツボとしては、ある年代(要するに私と同年代)のアニメ・TVカルチャーで育った層には、とりわけ受けそうな気がします(^^;。電撃文庫とは縁のない方も、どうぞお手に取ってみてください。



『永遠の森 博物館惑星』菅浩江 早川書房
 地球と月の重力均衡点のひとつラグランジュ3に浮かぶ巨大博物館<アフロディート>。そこにはありとあらゆる芸術品や動植物が集められ、学芸員達はデータベース・コンピュータに頭脳を直接接続しながら収蔵品の鑑定、分析などを行っている。主人公の学芸員・田代孝弘は、音楽・文学・文芸全般を扱う<ミューズ>、絵画工芸部<アテナ>、動植物担当の<デメテル>の三部署間にまたがる問題を総轄する<アポロン>に所属し、様々な芸術品とその物語に出会う。
 設定はきちんとSFしているしネタとしてもSF要素が強いですが、物語としては芸術にまつわる美しく、時にもの哀しい人間たちの物語です。

 脳神経科で治療を受けている一部の人たちだけに「天上の調べ」が聞こえる絵をめぐる「天上の調べ聞きうる者」。音向性変形菌を利用して音楽とともに小さな人形が動きだす仕掛けのバイオ・クロックはアイディア盗作問題とからみ意外なラストを迎える「永遠の森」。メディアにゆがめられた元天才少女ダンサーが引退公演で原点に還った自分を取り戻す物語「享ける形の手」。伝説化した「九十七鍵の黒天使」を奏でた一度限りの奇跡のピアノ演奏会が描かれる「ラブ・ソング」。
 永遠に芸術を保存することを目的とする博物館の物語ですが、実はその瞬間限りで二度と再生できない美の物語が多く語られています。

 珠玉の物語はどれもこれも心に残るものばかり。笛の音や音楽がまさに「聞こえてくる」描写は絶品です。「ラブ・ソング」の壮大なラストにもジーンときましたが、私のお気に入りは「きらきら星」のラストで未知の物体が奏でる「もつれる膨大なシンコペーション」のシーン。これぞ究極のセンス・オブ・ワンダーが凝縮された瞬間という気がしました。

 こんな素敵な作品を書いてくれる菅浩江ファンでよかった〜という思いにひたりきってしまった一冊です。SFファンのみならず、「美しいものが好きな人」にはぜひともお薦めしたい一作。


 以下は蛇足。端的に言えば「情動記録ってなに?」っていう素朴な疑問と物語からはずれていく個人的な感想です。(本を読み終わった人で関心がある方だけどうぞ。)



 芸術を観賞するときに知識は必要か? あればあったに越したことはない、というか、知識が得てはじめて「そういう意味なのか〜」と感嘆することだってたくさんありますよね。歌舞伎だってオペラだって、話の筋を知っていた方が、ただ見るよりずーっとおもしろい。ただし、何だかわからないけど後頭部を殴られたみたいな衝撃を受けることもあるわけで、知識を積み上げれば芸術に対する「感動」を理解できるのか、というとそれは否でしょう。で、集められるだけ集めたデータベースだけでは不十分、人間の美への感動・直感をコンピューターに教え込もうという発想は至極当然。しかしながら、この情動記録なるもの、一体どんなものなのでしょうか。(汎地球規模のシステムと言われると、イメージ的にはいきなり「ハイペリオン」を思いだしてしまうのですが(^^;。)
 美和子を通して「美への感動」をシステムに教えた場合、それはあくまで「ミワコの感動」ではないかと。でもって、例えば1000人の「感動」を集めたら、そこにあるのは普遍化された「感動」ではなく、あくまで1000個の個別の「感動」ではないかと思ったり。もちろん、システムは完璧なデータベースの補完として情動記録を使用するのでしょうし、集積された情動記録の分析によって美の究極の形がみえてくる可能性もなきにもあらずとは言えましょうが。

「判断に苦しんだら<本物>に会えばいいさ。情動記録は、結局、他人の感動でしかないんだから。美和子の考えのすべてを僕は理解してやれない。でも彼女の意見や感想を信じてやろうとするのではなく、彼女が見ているものを一緒に並んで眺めれば、そのものの力が僕に何かを語ってくれる気がする。・・・」(p.234)

 自分よりヴァージョンが上の接続端末をもつかもしれない妻・美和子について、孝弘が語るシーンがありましたが、これ読みながら、私ってもしかしたら芸術至高主義者でなくて、人間至高主義者なのかもしれないと思ったり。つまり「感動」する人があってこその芸術だと思ってしまうのです。たとえば誰かの情動記録を見ることができたとしたら、その対象物そのものとともにその記録者本人への興味が強くわいてくる気がします。純粋な美の分析には向かないタイプと言えますが(^^;)。もし仮に「感動」が普遍化されるような究極の美なるもののがあったとしたら、別に「私」がそれを実際に観賞する必要は全然ないんじゃないかなと。誰が見たって同じように美しいのだから。なけなしの個人の存在価値を「私」と「あなた」が感じることは同じではない、ってところに拠り所を求めている人間にとっては、普遍化された究極の美というものはもしかしたら「見たくないものその一」なのかもしれません。(ちなみに小説の中では美和子が孝弘に「伝えてしまう」シーンで救われる気がしました。)
 というわけで<ガイア>が成長するとどーいうものになるのかは非常に興味があります。

 と、まあ、作品への感動とは別にこーんなことを考えてました、ということで。

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