2001年12月



『黒と茶の幻想』恩田陸 講談社
 かつて『幻想文学』55号の「ミステリ作家が選ぶ<幻想ミステリ>この一册」というアンケート企画で、
1)「幻想ミステリ」という言葉から想起される作品の国内ベスト1は? →中井英夫『虚無への供物』、
2)海外ベスト1は? →ロレンス・ダレル<<アレキサンドリア・カルテット>>、
3)幻想文学読者にもっともふさわしい自作は? →『黒と茶の幻想』(未刊)
と、著者が答えていたのが非常に印象に残っています。  当然のことながら、期待は膨らみ続けて2年と半年(結局連載分は買っておきながら未読)、さて実際目の前に置かれた1册の本を見て、しばしためらった気持ち、おわかり頂けますでしょうか。期待半分、不安半分。しかしながら、結果はすでにでているわけで、読み始める以外にそれを知る方法はない。かくて、覚悟を決めてページをめくり、『三月は深き紅の淵を』に出てくるフレーズを読むや否や、著者の広げた網にきれいに絡み取られて600ページあまりの大長編をむさぼるように読みふけるはめに。

 学生時代の仲間がひさしぶりに集まった酒の席で盛り上がった旅の企画が実現した、Y島への『非日常の旅』。彰彦、蒔生、利枝子、節子の4人はそれぞれの仕事・家族から離れて、しばしの休息を求めてフェリーに乗り込む。幹事の彰彦は、各々が「美しい謎」を持ち寄って、旅の最中にみんなで解こう、と「宿題」を出していた。自然の宝庫Y島で、大いにリラックスし、原生林の中のハイキングと他愛のない美しい謎についておしゃべりを楽しみながらも、利枝子の胸にわだかまっているのは、親友だった憂理のことだった。蒔生との三角関係に陥り、卒業まぎわに独り芝居を演じ、消息を絶った憂理。その後、蒔生と憂理は会っていたのだろうか?

 第一章「利枝子」、第二章「彰彦」、第三章「蒔生」、第四章「節子」と語り手が入れ替わり、それぞれの視点で、物語が語られます。一人にとっての「事実」が、他の人によって補足され、形を変えていく様を、読者はスリリングに楽しむことができます。

 「利枝子」の章が一番謎めいていて、章が進み、ピースがそろってくるにつれ、だんだん幻想味が薄れていくような印象でしたが、この構成は確かに<<アレキサンドリア・カルテット>>ですね。特に最後の「節子」の章は、登場人物の中で一番まっとうな常識人で、視野が広く包容力のあるクレアとだぶります。

 この作品の適度な距離感が一番読んでいてありがたかったです。この歳になると、主人公と一緒に傷付くことを強要される作品はしんどいし、「事実は小説より奇なり」という言葉も重みを帯びていたりするわけで、適度な距離感があってかつ適度なリアルさがある作品は読んでいて非常に心地よいです。たとえば主人公たちが過去を振り返る時の、現在と過去の距離感のようなものは、20代前半の自分だったらわからなかったであろうものが実感できたせいもあると思いますが。

 『過去を取り戻す旅』を終えて、彼らはそれぞれ過去の思い出を葬り去ることに成功したのかもしれません。読者の方は、独り作業なので葬り去るところまでいかなくて、あれこれ思い出す旅だった気もしますが、それでも、最後のフレーズを読みながら、ぽろぽろ泣いてしまったのは、私も自分の”森”を見ていたからでしょうね。人間って強靱ですね。登場人物が破たんしないで、前に向かっていく様を描ける恩田陸はバランスのとれた人だなあと思います。

 読者によっていろいろな読み方ができる作品だと思います。久々にいい小説に出会えたなあという感じがしました。

*関連作品についてはこちら



大神亮平 奇象観測ファイル 忌神』青木和 徳間デュアル文庫
 シリーズ作品ではありますが、大神亮平はあくまで傍役で、彼自身のバックグラウンドは一向に明かされないので、単独作品として読んでも何の支障もないつくりになっています。

 知人・安西から遺言の品を託された民俗学者の川端教授は、大神を助手として伴い、瀬戸内海に浮かぶ孤島を訪れる。この地に伝わる「ヌカルコ」という伝説を調べる目的だったが、地元の人々は一様に口を閉ざす。大神らは、幼いころの事故で、<記憶抜け>の症状をわずらう繁久という青年に出会う。繁久の母は小学校の校長で、かつてこの島を訪れた安西の記録にもでてくるが、彼女も外来の二人に対してかたくなな態度をとる。二人が持ち込んだ遺言の品は、繁久に過去の記憶の断片を思い出させるきっかけとなるが、それは繁久の過去を根底から揺らがせるものとなる・・・。

 今流行りの民俗学系ホラーを予想して読むと、物足りないんじゃないかと思います。それほどエキセントリックな描写はでてこないので。「伝奇ロマン」という括り方もわたしにはよくわからないものなのですが、とりあえずわたしはこの作者の描く世界のてざわりに惹かれます。少し斜め上空から世界を俯瞰しているような、トレーシングペーパーごしに世界を観ているような、どこか感覚が麻痺したような・・・。細部がリアルじゃないとかそーいうことではなく、「あなたが一生懸命目をこらしてこれが本物だと認定しているものなんてもともと不確かなものじゃないの?」という、突き放したような感じが根底にあるような、というのかな。実は本当はものすごくシュールなものが書ける人じゃないかと思っていたりします。

 ああ、もちろんこの作品は、繁久の過去&「ヌカルコ」の謎解きものとして普通に楽しめます。



『オーケンのめくるめく脱力旅の世界』大槻ケンヂ 新潮社
 星雲賞受賞作家にしてロックミュージシャン。加えて、博学を誇るUFO研究家、と名乗った時期があったかどうかは忘れましたけど(笑)。大槻ケンヂのエッセイのおもしろさはわりと定評があると思うのですが、『小説新潮』で連載していたエッセイをまとめたこの1册は、すっごくおもしろくて読みながらお腹をかかえて笑ってしまいました。
 場末のストリップを見に行くと60〜70年代のロックミュージッシャンが生板ショーをやっている、という都市伝説(?)を追って実際に見に行ってしまう話や、「栃木県中国拳法日常化現象」に遭遇してしまった話、「免許取りたての身で決死のドライブ、マザー牧場小豚レースに間に合うか?」といった笑い話の中に、しんみりとした故・池田貴族への追悼エッセイやせつなくてあわい恋のお話なんてのもあります。
 確かにエッセイは旬のネタや書き手に対する読み手の関心度によっておかしさ度が変わってしまうけれど、連載媒体が『小説新潮』ということもあって、大槻ケンヂなんて知らんわい、という方々にも楽しめる内容になっていると思います。
 大槻ケンヂが現在やっているバンド・特撮を知っている人には、特撮結成時のエピソードが書かれている「音楽雑誌が書かないロックバンドの日々」に大爆笑することうけあい(笑)。

 「これって癒し系? いやいや、思いっ切りの脱力系。」というキャッチコピー通り、読みすすめるにつれて肩の凝りがほぐれて、ほぐれて、ほぐれきってしまう際物。

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