『カブキの日』小林恭二 講談社
「カブキ」と「時空を越える物語」がどうつながるのか、読む前は想像がつかなかったのですが、違和感なく物語に入り込めて一気に読んでしまいました。
カブキ好きの少女蕪は初めての世界座見学に大興奮。
美しい若衆にみとれてぼーっとなっている蕪の手に、「準備はいいか?」と書かれた一枚の紙片が渡される。何のことやらさっぱりわからない蕪は、その紙片を渡した若衆、月彦の案内で、世界座を見て回ることになる。世界座の楽屋は、一階は幹部、二階は一般の名題役者、三階は名題下の役者ほか太夫、裏方、そのほかもろもろスタッフ用となっているが、三階の奥は公権力の届かない無法地帯であり迷宮と化している。蕪と月彦はその不思議な空間へと入り込んでいく。
一方、舞台の上では若衆あがりの京右衛門の戦いが始まっている。家門をもたない成り上がり者京右衛門を、カブキ界の女帝が追い落とそうとする。カブキ界三奇の至宝の一つである、佩刀名古屋丸の紛失は京右衛門にとって致命的に見えたが・・・。
今までの作品より表面的なアクの強さが影を潜め、とっつきやすいエンターテイメント風味な仕上がりになっています。しかし、読者を笑わせながら誘いこむこの物語世界は、世界座の三階の果てしない空間のように奥深いものがあります。小林恭二は淡々とシニカルな描写をする作家というイメージが強かったのですが、ラストの「舞」にさらわれるような共鳴を覚えて印象をあらたにしました。
私が求める「異世界」というものに、実にはまった感があり、大満足でした。
『ヴァスラフ』高野史緒 中央公論社
サイバースペースにバレイ舞台現る。
《ロシア帝国コンピュータ・ネットワーク管理省》が作りだした、ソフトウエア「ヴァスラフ」は、最高のバレイダンサーであるヴァーチャル・リアルティ。ヴァーチャル劇場でモーション・キャプチャー・システムを使って踊るバレリーナと共演するヴァスラフは、見る者すべてを魅了する存在感をもち、やがて、プログラムの制御を越えサイバースペースを自在に動きだします。
「所詮世の中は何処へ行っても前例や常識や横並びとの戦いであることを思い知らされてきた私としては、この作品には愛着があるだけに、そうした穢れを恐れて秘蔵してきたのである。」(『ヴァスラフ』p.197 あとがき)
コンピューターの中のプログラムの一人歩きを描いた小説は、確かにたくさんありますし、サイバースペースものだっていまや巷にあふれています。しかし、この舞台装置を使って高野史緒が描き出す虚構世界はなんと独特なのでしょう。
ニジンスキーについて、それほど詳しくないので、作者が描き出したかった像を果たして自分が正確に見いだせたかどうかわかりません。しかし、『ムジカ・マキーナ』の無上の音楽と、『カント・アンジェリコ』の狂乱の舞台は、どうも完全には聞き・見損ねた感があったのに比べ、ヴァスラフの舞踏と音楽には静かに酔えた気がします。
音楽であれ舞台であれ、作者が思い描く音や映像をそっくりそのまま文章で受け取ることは不可能であり、受手側の知識レベルや想像力あるいは妄想力による歪みが生じます。今回の戯曲「形式」(戯曲そのものではなく)ですすむ文体は、現実の中の芝居という虚構、あるいは現実の中のヴァーチャル感を体現していると同時に、歪みを歪みのままにあそばせる余地があるところが、読んでいてしっくりする理由かもしれません。
脇役陣も役割分担をこなしつつ、よい味をだしていると思います。
ラストがいいですね。
『クロスファイア』(上下)宮部みゆき 光文社カッパノベルス
念力放火能力者(パイロキネシス)を主人公としたサスペンスタッチの作品です。毎度のことながら作者の「物語る」巧みさが光っています。
パイロキネシスである主人公、青木淳子は自己を「装填された銃」と模し、法によって裁かれない悪を滅ぼすために、常人ならざる力を使う。
物語は、深夜の廃工場で人が殺されかけている場面に、主人公が遭遇するところから始まる。三人の犯人のうち二人を倒した淳子は、死に間際の被害者の男から連れ去られた恋人の救出を依頼される。捜索の末、逃走した若者にたどりつくが、その若者は謎の人物に「とどめ」をさされる。その直後、淳子の過去を知る「ガーディアン」という組織の者からの接触を受ける・・・。
一方、不可解な廃工場焼殺事件の捜査に立ち会った警視庁の刑事、石津ちか子は、パイロキネシスの実在を唱える牧原刑事に出会い、過去の未解決事件と新たな連続小火事件を通して、「犯人」の手掛かりへ近づいていく。
様々な登場人物の過去と現在が絡み合い、それぞれの「思い」が等しい重みをもち、やがて一つの結末へとたどりつきます。嫌悪、憎悪、怒り、共感、反感、そして・・・哀しみ。振り子のような心の揺れを感じながら、読み終えて、果たして残された人々の未来にどんな望みを託すべきなのか? 考えずにはいられませんでした。
どうやら評価がわかれる作品のようですが、主人公と同一化することで無条件にカタストロフィが得られる作品でないことだけは確かでしょう。私自身は(作者の思惑通り?)石津ちか子を通して、自分ならどう考えるか? と問いながら読んでいったような気がします。ガーディアンに肩入れしたい気持ちとNOと言いたい気持ちとがせめぎあうのですね。でも、個人も組織も”神”にはなれない。悪人に踏み付けにされるのはいやだけど、「必要悪」の被害者になるのもゴメンだなあと思います。もっとも、自己の置かれた立場によって考えなんて変わってしまうあやうさというのも痛感していますが。
尚、この作品は、『鳩笛草』に収録されている「燔祭」という作品の続編になっています。重要なキーとなる「過去の事件」の物語ですので、ぜひこちらの作品から先に読むことをおすすめします。