サラリーマンは、気楽な稼業ときたモンダ
2007. 4. 8
俳優・植木等が亡くなった。80歳だった。 植木等は舞台に上がる前、必ずズボンを脱いで自分でアイロンをかけた。 「私の場合、ここのシワが特に目立つんでね」 と言って、股下の部分に念入りにアイロンを当てた。植木は舞台でいつも足を高く上げて歌い、踊った。足を上げた時、ズボンにシワがあると、お客さんはとたんに現実に引き戻されて夢がしぼんでしまう。だから現実を逃れて夢を見に来たお客さんには大変失礼なことになる、と植木は言うのである。ズボンにシワを作らないために、本番前、植木等は絶対に椅子に座らなかった。立派な芸人だった。
自分で自分のズボンにアイロンをかけるスターを私は二人知っている。植木等と三船敏郎である。三船敏郎は、 「俺は軍隊が長いから、なんでも自分でやらないと気がすまねえんだ」 とよくいっていた。朝4時まで一緒に飲んで、7時にホテルに迎えに行くと、三船はもう洗濯物まできっちり畳んでトランクに詰めていた。隣の部屋に女性が隠れていて、身の回りの世話をしているのではないかと疑ったほどである。
植木等は「ニッポン無責任時代」で突然世に出た。この映画を初めて試写室で見たとき、私は海外向けの映画を選定し、その映画の英文宣伝パンフレットを作る仕事をしていた。
私は周囲の反対の意見を押し切って、早速この映画を輸出することに決め、5万円の稟議書を書いて提出した。その日のうちに、私は川喜多長政重役に呼び出された。
「君は本気でこの映画を輸出する積もりかね」と重役は私に訊いた。私は、「この映画は今までの東宝映画にはない新しい喜劇です。この映画の続編はきっと来年の正月映画になるでしょう。しかも、この映画で東宝は少なくとも5年はメシが食えます」と答えた。
川喜多重役は、更に、「君はこの映画に何という題名をつける積もりかね」と私に尋ねた。私は、「はい。HAPPY−GO−SLICKY、調子のいい奴とつけます」
と答えた。川喜多重役は、わかった、と言って即座に稟議書に判を押して返してくれた。私が予想した通りには、「ニッポン無責任時代」はあまり海外に売れなかったが、日本では大ヒットして、森繁の「社長シリーズ」、加山雄三の「若大将シリーズ」と並んで、「無責任シリーズ」として続編も20本ばかり作られた。東宝は5年どころか10年このシリーズでメシが食えた。
外国部
「ニッポン無責任時代」の脚本を書いた田波靖男とは私は同期入社である。田波は慶応を出て東宝の文芸部に入り、森繁久弥の「社長シリーズ」を書いた笠原良三の下で脚本を書いていた。暇があると落語全集を読んで笑いの研究をしていた。
その頃、文芸部にポール中岡という妙な男が出入りしていた。稀代の詐欺師である。私もこの男にはコロッと騙された。ある時、この男が外国部の私のデスクにやってきてシノプシスを差し出し、5万円出すからこれを英文に翻訳してくれと言ってきた。私は数いる翻訳者の中から新人の女性を紹介した。1週間たって、この男は完成品は来週でいいから一度下書きを見せてくれと言ってきた。女性翻訳者はラフな第1稿を渡し、次の週にきれいにタイプして持って来ると約束した。しかし、男はその後とうとう現われなかった。後になって文書課のタイピストから、その男がやってきて英文のシノプシスをタイプしてくれと言うのでタイプしてやったと聞いた。噂に聞くと、男はそのシノプシスを持ってアメリカに合作の話を持ち込んだということだった。5万円の翻訳料を貰い損なって泣いたのは、後に「魔女の宅急便」を書いて童話作家になった角野栄子である。
脚本家田波靖男は、この男、ポール中岡をモデルにして「ニッポン無責任時代」を書いた。ポール中岡は触れ込みではアメリカの二世で、慶応大学を出ている。
彼は「ニッポン無責任時代」の出だしの通り、卒業式を終っても就職せず、モーニングを一丁作った。彼はそれを着て新聞の死亡記事で知った財界人の葬儀に出かけ、目星をつけた社長と名刺を交換する。死人に口なし、葬儀の席で故人には可愛がって貰いましたといえば誰でも信用する。後日、その貰った名刺を持って社長室に現われ、いきなり仕事の話を持ちかける。そして又別の会社の社長を紹介してもらう。こうして彼は財界人のネットワークを次第に広げ、ビジネスチャンスを作った。
田波靖男はこの「ニッポン無責任時代」の脚本を持ってナベプロを訪れ、植木等に会った。この植木との出会いが大きかった。サラリーマンは、事あれば「責任はオレが取る」などと大言壮語しながら、いざ事が起きると誰も責任を取らない。社員が責任を取らなければ、会社も責任を取らない。会社が責任を取らなければ、国も取らない。今はすっかり定番となったが、事件や事故を起こすと、机の前に会社の重役たちが一斉に並んで頭を下げ、「申し訳ありませんでした」という構図も当時は全くなかった。役人も会社もただ下を向いて沈黙を守ってさえいれば嵐は通り過ぎていった。これに対し、「いい加減にしろ!」と噛み付いたのがサラリーマン代表の植木等だった。植木等が上司に噛み付き、庶民に味方し、会社の中の上下関係を無視して自由奔放に動き回り、しかもそれが当たってドンドン出世していくのを見て、日ごろ鬱積している日本中のサラリーマンは拍手喝采を送ったのである。
「ニッポン無責任時代」の監督は古沢憲吾である。古沢憲吾は自称パレンバンの落下傘部隊の生き残りと称して、パレさんと呼ばれていた。いつも白い長袖のシャツに白いトレパンをはいて撮影所の中を走り回っていた。愛すべき正義漢で、右翼的だった。「来なかったのは軍艦だけ」という昭和23年と25年の東宝撮影所の大争議には、大河内伝次郎、松林宗恵監督等と共にストライキを強行する組合に反対し、撮影所を出て新東宝という会社を作って映画を作っていた。ストライキが終息して、逆に新東宝が経営に行き詰まると、昭和31年東宝に復帰して、「ニッポン無責任時代」で監督に昇進した。元気のいいのが取り柄の監督で、街でも会社でも喫茶店でもガンガン大量のエキストラを歩かせて、雑踏の中で歌って踊って走ってという植木等の映画にはピッタリの監督だった。新橋の駅前に雑踏するサラリーマンを撮りに行って、
「ハーイ、只今から盗み撮りをやりまーす!こっちを見ないで下さーい」 と監督自ら大声で叫んで、盗み撮りにならなかったというエピソードもある。
「ニッポン無責任時代」のいいところは、大事な台詞でも大事そうに言わないところにある。例えば植木等が団令子に「好きだ」と告白する場面。普通ならこんな大事な台詞は、場所を選んで、しっかり相手の目を見て言うものである。少なくとも植木等はアップで「好きだ」と言い、団令子はアップで反応を示すものである。従来の映画はそんな風にできていた。それが古沢憲吾に撮らせると、アップどころかロング・ショットで、しかも移動カットで植木等に喋らせてしまうのである。古沢憲吾はこんなことをいちいち計算して撮ったわけではない。全て植木の動きの流れの中で撮ったのである。しかし、これが無責任な時代にはピッタリ合っていたのである。無責任に映画を見に来ている観客は、大事な台詞も無責任に聞き流して、映画そのものを愉しんだのである。
沖縄
「ニッポン無責任時代」は、森繁久弥の「駅前温泉」と二本立てでお盆に封切られたが、マンネリの「駅前温泉」よりも「ニッポン無責任時代」のイキの良さで番組そのものは大ヒットした。私の予想したとおり続編の「ニッポン無責任野郎」は次の年のお正月映画に決まった。
私はその秋に沖縄東宝劇場の支配人として那覇に赴任した。「ニッポン無責任野郎」が正月映画に決まると、私は沖縄東宝劇場の座席を後ろから100席減らした。座席を減らして立見席を増やしたのである。立見席を増やすと入場者数は5割アップする。しかも観客は立ち見だと足が痛いから二回は続けて見ない。観客の回転が速くなる。植木等の映画は立ち見でも大勢で笑いながら見ないと面白くない、そういう評判が立って劇場は連日押すな押すなの大騒ぎになった。 定員僅か400の劇場で、なぜこんなに入るのかと本社でも不思議がった程である。ましてや当時の沖縄は米軍の占領下で1ドル360円の時代だから、円貨に直すと約3倍の興行収入になる。定員僅か400の小劇場が、渋谷東宝と同じ成績を上げたのだから社内でも評判になった。その1年後、私がロサンゼルスの劇場の支配人に抜擢されたのも、この俳優植木等と脚本家田波靖男と監督古沢憲吾のお陰だった。
植木等の実物と初めて会ったのは1967年、昭和42年のロサンゼルスだった。植木等は私が撮影所を出てから映画のデビューをした男で、現場では一度も顔を合わせていなかった。それが植木等とクレージーキャッツの映画「ラスベガス黄金作戦」でラスベガス・ロケをやるので通訳兼助監督として手伝え、と言われて植木等とハナ肇以下クレージーキャッツの面々に初めて会った。
クレージーキャッツのメンバーは、リーダーのハナ肇の人柄だろうか、少しもスター気取りの驕った部分はなく、皆そろって物静かな紳士だった。ハナ肇はゴルフ靴を買いたいというので知り合いのゴルフ屋に案内したら、フットジョイという最高級のゴルフ靴を買った。そして、
「ナベさん、日本に帰るときにはな、騙されたと思ってこの靴を買って来な。 こりゃア一生ものだぜ」 と私に教えてくれた。翌年、私は日本に帰るとき、ハナ肇に教えられたとおり100ドルのフットジョイを買って帰った。フットジョイは日本では5万円もする最高級のゴルフ靴とされ、どこのゴルフ場に行っても羨望の的になった。
植木等は僧籍にあると聞かされていたが、さすが物静かな紳士だった。植木の歌にある「ガキの頃から調子よく、楽して儲けるスタイル」とは大違いで、スターぶったところは少しもなかった。それより面白かったのは谷啓で、谷はミュージシャンらしくなく極端に人前に出ることを嫌った。ドラキュラやフランケンシュタインのゴム製のマスクをいっぱい持っていて、できれば舞台でも映画でもマスクをつけて出たいくらいだと言っていた。彼がトロンボーンという楽器を選んだのも、トロンボーンならバンドの後ろの方で吹いていられるからだった。とにかくアマゾンの半漁人のマスクをつけて、ハリウッド大通りを隠れるように歩いた日本人は、前にも後にも谷啓しかいない。
「ラスベガス黄金作戦」のロケ隊は、3日間ロサンゼルスでロケをやったあと、ラスベガスに移動した。ロサンゼルスではユニオンがうるさくて日本側スタッフと同じ数のユニオンのメンバーを使わなければならないので、人件費が膨大になって了うからだった。そこへいくとアリゾナ州はまだユニオンが緩やかで、ラスベガスは市長から商工会議所までが撮影に協力的だった。道路の真ん中にクレーンを置いてクレージーキャッツの歌と踊りを移動撮影したいと言うと、白バイが数台やってきて道路を全面封鎖してくれるのである。我々は1週間、ラスベガス市内を自由に撮影しまくった。
それより困ったのは、ラスベガスには夜がないことだった。朝は5時頃からカンカン照りである。朝食を食べて8時出発でロケに出る。10時になるとユニオンの命令で休憩を取らなくてはならない。2時間ごとに大きなランチボックスを渡される。中にはサンドウィッチや林檎や珈琲が入っていて、食べきれないうちに撮影が始まる。12時になるとケイタリング・サービス車が来て昼食。3時には又ランチボックスが配られる、後で食べようと思って置いておくと、すぐ6時になり、夕食だといわれてももう食べられない。それより困ったのは砂漠には日が落ちないことである。夜8時でも9時でもデイ・シーンが撮影できる。ようやく暗くなってホテルに帰って、次の日の予定表を作って各パートに配ると、夜中の12時である。そして困ったことにはホテルの1階には24時間オープンのカジノがあって、いつでも人が溢れている。ギャンブラーとしては、これが気になってどうしても寝られない。ちょっと1時間だけ、と思ってブラック・ジャックの椅子に座るといつの間にか4時になってしまう。誰かが背中をつつくので、見ると植木等である。
「子供は寝なけりゃダメだよ」 なんて言う。
「スタッフは良いんですよ。被写体の方こそ寝た方が良いんじゃないですか。お肌に悪いですよ」
てな事をいってようやく部屋に帰る。3時間も寝るとまた日が昇る。「コレじゃ身体に良いわけナイヨ。判っちゃいるけどヤメラレナイ」の毎日である。正直言ってこんなにきついロケはやったことがない。ロケよりギャンブルの方が正直いって辛かった。アリナミンをガバガバ飲んで、小便から血が出るというのを初めて経験した。ようやくロケが終って、皆は飛行機でロサンゼルスに帰れるのに、私だけが550キロを車で帰らなければならない。劇用車をロスまで運ばなければならなかったからである。アリゾナ州からカリフォルニア州に入るとき、州境にまたもやスラブマシンを置いている店がある。その店で最後のコインをはたいて出るとき、「アリゾナに又のお越しをどうぞ」という看板があった。ああ、これでもう金を取られなくて済む、とここで誰でも思う。ロサンゼルスに帰ってその話をしたら、植木等もラスベガスの空港で全く同じ思いをしたと言って呵呵大笑した。植木等がラスベガスのカジノでいくら損をしたか、私は知らない。
ハイジャック
「無責任シリーズ」のモデルになったポール中岡という男とはその後2回会った。男はある日突然私の劇場にゴルフクラブを買えと言ってやって来た。男は中古のゴルフクラブをロスアンゼルス中で買い集めてアメ横に送る商売をしていた。ゴルフクラブは毎年9月になると新商品が出る。新商品が出ると前年のモデルは新品でも半額になる。男はこの新古品を買い集めてアメ横のゴルフ店に送って金儲けをしていた。私はこの男から昔の翻訳料を取ろうとは思わなかったが、この男からゴルフ・クラブを買う気にはなれなかった。
2度目に彼の顔を見たのは東京で、ある事件を伝えるテレビの上でだった。 赤軍派の「よど号ハイジャック事件」の後だったと思うが、同じように日航機を乗っ取って身代金を機内に運び込ませ、岡山あたりの上空から金を持ってパラシュートで逃げようとした男が羽田で捕まった。事件はテレビで生中継されて日本中が大騒ぎをしたが、男の身元が特定できずマスコミは苛立っていた。そんな時、東京スポーツのあるキャメラマンから私のところに電話が入ってきた。
「ナベさん、驚いたよ!ハイジャックをやったのはポール中岡だよ」
ロサンゼルスで中岡からクラブを買ったことのあるそのキャメラマンは、東京スポーツの現像室にいて事件の起きた羽田から送られてくる写真を次々と焼いていた。犯人の顔が現像液の中に次第に見えてきて、ポール中岡になったとき、彼は本当に吃驚した。おかげで夕刊紙の東京スポーツは他社に先駆けて犯人を特定するという大スクープをやってのけ、そのキャメラマンは社長賞を貰った。その事件がキッカケでハイジャック防止法が生まれ、ポール中岡はまだ刑務所にいる筈である。
喜劇映画の成れの果て
植木等は昭和37年に「ニッポン無責任時代」でデビューし、昭和47年までの10年間で約30本の主演映画を東宝映画に残している。「無責任シリーズ」は、「社長シリーズ」「駅前シリーズ」「若大将シリーズ」と並んで一世を風靡し、それなりの営業成績は残しているはずだが、改めて「東宝50年史」を開いてみると、意外にその記事の扱いは冷淡で、植木等の写真入の紹介記事さえない。喜劇よりシリアスドラマを重く見る真面目な日本人の気質はこんなところにも現われ、喜劇はいつまでたっても大作扱いされない。喜劇に携わる者には伝統的に業界は冷淡で、喜劇役者を芸術家として遇するすべを知らない。
植木等は、そんなことには一切構わず、初老の、または老年のテレビ役者として80年の長い芸能生活を終えた。日本人は植木等とともに高度成長経済を迎え、世界に立ち向かい、大国の何たるかを知ることができた。そして今、世界の老大国の一つとして植木等の死とともに終ろうとしている。植木等はまさしく日本の戦後史そのものというべき役者だった。
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