平成十六年の秋。林道がねじれたと思った瞬間、目の前が真っ暗になって気を失った。
それから何時間経ったか。寒さと痛さで気がついたときには、土砂と岩に埋もれて身動きが取れなかった。
奇跡的に息はできた。しかし人里離れている。救助隊が来るまでとても保ちそうもなかった。思考能力がどんどん落ちていく。
地鳴りに続いて余震が来た。土砂が崩れる音が不気味だった。
孫も見た。この世に未練はない。こんな苦痛と恐怖を受けるくらいならひと思いに殺してほしい。そう絶望的な気持ちになったとき、暗闇の中で何かに唇を舐められた。
ぎょっとしたが、すぐに十年来の友、犬のタロだと知れた。
巻き添えにしてすまなかった。お前だけでも逃げて生き延びてくれ。そう言いたかった。が、のどが干からびて声にならない。
そんなことはいいから、一緒に頑張ろう。口を舐める舌がそう言っているようだった。
タロの舌を舐め返すと僅かながら水分が摂れた。それでどれだけ勇気づけられたか。頬に毛皮が暖かかった。
救出されたときは意識朦朧だった。病院で家族に名を呼ばれて初めて助かったと思った。
数日してから「タロはどうした?」と妻に尋ねた。ずっと気がかりだったのだが、胸騒ぎがして聞けなかったのだ。
「タロは死にましたよ」
妻の(今頃何をこの人は)と、突き放すような物言いに胸がひしげた。思い返せば弱々しい舐めかただった。
退院してすぐ、裏の竹林へ松葉杖で行った。
ぽつんと建っている墓標に、享年十二歳、没年平成十四年と墨書されていた。
タロありがとうな。
回向に合掌する後ろで、かさっかさっと何かが竹林の奥へ歩き去っていく音が聞こえた。