駅の女

 三時近くだった。私は小切手帳を小脇に駅のコンコースを急いでいた。
 見覚えのある美しい女性とすれ違った。
 心当たりに、あっと驚いて、とっさに「くみちゃん?」と声を掛けていた。確信はあったが、弱々しく語尾が上がっていた。
 一瞬立ち止まる気配があった。が、そのまま雑踏に消えてしまった。
 聞こえたのに素知らぬふりをした。そんな風に見えた。
 考えてみれば、あれから長い年月が流れたとはいえ、気楽に立ち話ができる仲ではなかった。強引で一方的な別れ方だった。そうされても当然なのだが、やはり寂しかった。
 左腕の大きな紙袋と身なりから、生命保険の外交員ではないかと想像できた。
 頑張っているんだ。子はいるのか。私のことで婚期を逃さなかっただろうか。さまざまな思いが過去の思い出と共に去来した。
 彼女は昔の面影そのままだった。私は髪は薄く腹も出てしまった。顔を合わせれば自分が惨めに見えただろう。そんな私を気遣って、あえて気がつかないふりをしてくれたのかもしれない。そういう女だった。
 仕事に追われ、それ以上感傷にふけることもなく、帰宅するまで忘れていた。
 夜になってふと思い出した。あれは何年前のことだったろうかと指折り数えた。
 三十年近くになっていた。彼女が「彼女」だったのは二十五、私が三十だった。
 愕然とした。彼女はとっくに五十を過ぎている! しかし駅ですれ違った彼女は、五十どころかどう見ても三十半ばだった。
 人違い。赤の他人を見て、ほろ苦い過去を独りよがりで述懐していたのか。
 布団の中で目を閉じた。駅の女が振り返った。紛れもなく彼女だった。とすると…
 はっきりした答を見いだせないまま、私は眠っていた。

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