第一部
重苦しい夢にうなされて妻は目を覚ました。
身を起こした。
寝間着がすっかりはだけている。
敷き布団によれた敷布がうねった川となっている。
どんな夢を見ていたのか。
薄暗い壁を見つめて思い出そうとするがどうしても思い出せない。
細帯が未練たらしく左手首に絡みついている。
胸に重い汗が玉となって浮かんでいる。
パネルヒーターの暖気がよどんでいる。
袖で乳房の下をぬぐった。
隣に夫がいない。
トイレかと思った。
戻ったら夢の話をしようと思った。
しかしどんな夢だったのかと聞かれたら困ることに気がついた。
生々しい感覚は残っているのに具体的内容がさっぱりなのだ。
汗ばんだ寝間着を着替えようと寝床から起き上がった。
が、前をかき合わせるにとどめた。
今夜は冬至。夜が明けるのはまだ遠い。
どうせまた帯を解かれもう一度、いや二度は抱かれる。
夫は判で押したように定刻に帰宅する。
酒はたしなむ程度。賭け事は一切しない。
人を家に呼んだことがない。義理で付き合う親類縁者もいない。
およそ運動とは無縁だが風邪ひとつ引いたことがない。
仕事は人一倍こなすから、まじめで有能な社員と見られている。
それでいて有給休暇は要領よく消化する。
目立たない平凡な勤め人。
伴侶からすれば理想的な夫。
そう傍から見られている。
ひょろっと細い体のどこにあるのか。夫の精力は無尽蔵といえた。
玄関に出迎える妻は何を着ていようとその場ですべて剥がされ転がされる。
凄まじい夫婦の交歓はここから幕が開く。
翌朝夫が出勤するまで下着を身に着ける暇はない。
帰宅した玄関先で終えて、食事の支度中に台所でまた行われる。
食後の片づけをすることは許されない。
歯だけ磨いてすぐ寝室に引きずり込まれる。
たっぷり時間を掛けて少なくとも二回。
明け方も欠かしたことがない。出勤間際まで寝室にいる。
休日はほとんど全裸で過ごす。着たとしても脱ぎ着のしやすい服一枚。
夫婦して外出するときは下着を着ない。いつどこで求められるかわからないからだ。
薄着のときだけブラジャーは許される。
寝間着は細帯ひとつで分け広げられる浴衣と決まっている。
出張の前後は延々と続ける。
まともに食事する時間がないからサンドウィッチか握り飯を寝床脇に用意しておく。
それも半分以上が残る。ハイネケンの数本と水差しだけが空になる。
こうした毎日が丸一年変わらず続いた。
世間知らずの妻はそれが異常とも思わなかった。
ひどく疲れたとき、よその妻たちもこんなものなのだろうかと疑念を挟むことはある。
しかし夫の愛情の深さゆえと、妻は求められるまま拒むことなくすべて応えた。
夫は事実上初めての男だった。
ゼミの合宿先で出会った。
そのころ夫は先妻との清算が済んでいなかった。
互いの愛情はとっくに消えていたが、女の肉体が強靭な男の肉体に未練を残していた。
それをしばらくして打ち明けられた。
話がこじれないようにふたりは滅多に会わなかった。
密かな遠距離恋愛の期間が長かった。
その代償として会えるときは一睡もせずに快楽を貪った。
舅たちと起居を共にするようになっても夫は前にも増して執拗に妻を抱いた。
子宝こそ恵まれないものの、夫に潤されて妻はそれなりに安寧な日々を過ごしていた。
夫の激しさのあまり妻が前後不覚になったことがあった。
それから妻は狂乱の中で気を失いやすくなった。
その晩もそうだった。
絶頂を三度越えたところまでは意識があった。
その後のことは手首に巻かれた帯が物語っていた。
しばらく妻はぼうっと夫がトイレから戻るのを待った。
一向に戻ってくる気配がない。
トイレか風呂場で倒れたのではないか。
夫の夜は激しすぎる。心臓か脳を痛めていてもおかしくはない。
胸騒ぎに手首をさすりながら寝室を出た。
トイレのドアの小窓に明かりはなかった。
廊下を抜けた。
その先に若夫婦用のとは別に、二親用の広い風呂場がある。
そこにはジャグジーとサウナもあるので、自分たちも時折使わせてもらっている。
ドアを開けた。
脱衣場は明るかった。
棚の籠に母のネグリジェと淡い色合いの下着があった。
こんな夜更けに。
柚湯を落とすのを惜しんで入り直したのか。
それにしても珍しい。
小首をかしげて廊下に出た。
ドアを閉めかけた妻の手が凍りついた。
中にいるのは母ひとりではない。
ネグリジェの下に覗いていた男物の黒いビキニが網膜に残っていた。
父は白のトランクス型しか持っていない。GIスタイルに憧れていたことだけあって、それが筋肉質の父によく似合った。
しかし残像にあるのは見覚えのあるカルヴァンクラインのビキニ。
妻は慄然とした。
再び脱衣場にそっと足を踏み入れた。
押し殺した女の声が聞こえる。
紛れもなく母の声。しかしいつもの母の声ではない。
中にいるのは母。そして自分の夫。
そう確信しているのに一抹の疑念が残る。
足を踏み出すべきか、そのまま去るべきか、迷う妻の浴衣を寒気が包む。
浴衣の襟を合わせ持つ手が怒りで震える。
ええい、ままよと、ガラスドアに手を掛けた。逆上していた。
その刹那、男の手が妻の肩をぐいと抑えた。
思わず息をのんだ口を柔らかな手が塞いだ。
振り向くとナイトローブ姿の父が立っていた。
声を上げるな静かにと、父は表情だけで娘に伝えた。
人妻たる娘は首の据わらない人形のようにこくんこくんとうなずいた。
娘はかどわかされるようにして両親の部屋に連れ込まれた。
ドアが閉められた。
釣り上げられた魚同然に娘は口をパクパクさせて急いで肺に酸素を送り込んだ。
父に聞き質したいことがあった。
風呂場の中にいるのは夫と母なのか。
いったい深夜の風呂場でふたりは何をしているのか。
いや答えは聞かずともわかっている。
が、父の口から確かめるまで信じたくない。
こんなことはいつからなされているのか。
父はこのことを知っていたのか。
知っているならなぜやめさせないのか。
たたみ込んで問いつめるつもりだった。が、声が出ない。
父は黙って娘を見守った。
だからあの男はダメだと言ったのだ。
同性として、また自分が同じ部類の男だからこそ、特有の危険な匂いを嗅ぎ取っていた。
今更そう言ったところで何の解決になろう。
娘の傷を深くするだけだ。
悲しみに父の目が細くなり、娘の目から溜め涙があふれ落ちた。
わっと娘が父の胸に飛びついた。
若妻となって十二分に熟した娘を父は支えきれずに後ろのベッドに尻餅をついた。
娘は泣き崩れ、父のナイトローブの襟を紅涙で濡らした。
父は慰めの言葉に代えて不幸な娘の髪を指で梳かした。
後れ毛が汗の退かない首筋に身悶えている。
嗚咽する背中をなだめる父の手が娘の肩から浴衣を落とした。
壁の間接照明でも、娘の肌は父にはまぶしい。
肩に掛け直す手がさまよい、胸のふくらみに当たった。
赤子に含ませたことがない乳が悲しみに泣いた。