奥の細道 を巡る 結びの地・大 垣
露通も此のみなとまで出でむかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来り合ひ、
越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子・荊口父子、其の外したしき人〃日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、
且悦び且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ
奥の細道むすびの地記念館 住吉公園:船着場跡



    奥の細道むすびの地 大垣

 元禄2年(1689)「弥生も末の七日・・・・」(陰暦3月27日陽暦5月16日)、江戸深川を出発した芭蕉は、行程約600里(約2400km)五ヵ月余りに及ぶ「奥羽長途の行脚」を終え、8月21日(陽暦10月4日)頃大垣へ到着して、駆け付けた曾良や大垣の門人たちの温かい歓迎を受けたという。
 芭蕉が最初に大垣の地へ足を踏み入れたのは、貞享元年(1684)「野ざらし紀行」の途中、俳友・谷木因を訪ねたのが始まりで、これが4度目だという。谷木因は大垣船町湊で船問屋を営んだ人物で、芭蕉と木因は京都の北村季吟で共に俳諧の道を学んだ門下生の関係にあったそうだ。大垣城を囲むように流れる外濠水門川の船町地区に、むすびの地記念館や住吉燈台・船町港跡などが整備保存されている。

 何はともあれ真っ先に「奥の細道むすびの地記念館」へ向かった。記念館自体はそれ程大きくはないが、並べられた展示物や記念館前に流れる水門川沿いの公園内のどれもが興をそそる。
 公園に点在する芭蕉の句碑の前に立つと、夫々の地を訪ねた時のことが懐かしく思い出される。館内で手に入れた案内マップによると、「ミニ奥の細道・芭蕉句碑めぐり」が、JR大垣駅に近い愛宕神社からの川沿いに、主だった芭蕉の句碑が並べられているようだ。どれも見てみたい気もするがそうもしてはいられない。残念だが周りの数基だけを見物して切り上げた。 
住吉公園入り口
芭蕉と木因の像
「寂しさや・・・」の句碑
船町港跡 記念館内 正覚寺
明星輪寺(こくぞう)
「はとのこえ・・・」芭蕉句碑


 芭蕉が大垣最後の句会を開いたのは明星輪寺だったと、記念館内の資料で知った。家内はこの寺を私たちの旅の締めくくりにしたいという。私もどこかふさわしい処をと考えていた矢先なので、それもいいだろうと向かうことにした。行き先は中仙道赤坂宿である。
 地元では、明星輪寺と言うより「こくぞうさん」で親しまれているらしい。明星輪寺は、伊勢朝熊山の朝虚空蔵・京都嵯峨野の昼虚空蔵とともに美濃赤坂の宵虚空と言われ、むかしから日本三虚空蔵として有名だったという。
 旧街道の横断歩道でボランティアらしいお年寄りが、学童の道路横断を誘導している姿が目に入った。この爺さんに尋ねてみれば、と思ったのがドンピシャで、親切に「こくぞうさん」への道順を教えてもらえた。
 くねくねと曲がりくねった細い山道を向かったのだが、なかなかの道のりである。途中で迷ったのでは?と心細くもなったが、取り違える分かれ道は無かった筈だ。日暮れ間近だったがようやく山頂へ辿り着いた。
山頂にある明星輪寺の門前から西の方角が拓けていた。急な坂道でもないと感じたが、随分と高くまで登ってきたものだ。大垣の街が眼下に広がり、正面の山並へお日さまが沈みかけて、雲を茜色に染めている。芭蕉もこの夕焼け空を眺めたのだろうか・・・。ふっとそんな思いが頭の片隅を過った。
 

 最終日の夜は岐阜長良川畔に宿をとった。窓の正面には、対岸に聳える金華山が見える。頂上の岐阜城がライトアップされているが、ここからの眺めでは小さい。窓辺に立っていると、これまでの長かった道のりの数々がいやでも想い出される。
 深川を出発したのが4年前の春先のこと。旧東海道を訪ね終わったときもそうだったが、いざ終ってみるともっと彼方此方じっくり見てくるのだったと、多少の悔いがないではない。だが途中では、その先を訪ねることの方が楽しみで・・・。こればかりは仕様がないこと。・・・さて次は何処を訪ねることにしようか。