旧東海道五十三次を歩く
新居宿から二川本陣を経て吉田宿へ
弁天島
浜名湖の夕暮
新居関所跡
威厳を見せる建物
旅籠・紀伊国屋
潮見坂峠
白須賀茶屋
白須賀凧
二川本陣跡
上段の間
第118聯隊ありき
吉田城二の丸
城下を流れる豊川
マンホ−ルの蓋に
描かれた手筒花火
牟呂八幡社
おてんのうさま
なめし田楽・きく宗

              弁天島と唯一現存の新居関所跡

 浜名湖に延びる弁天橋を渡ると、浜名湖上に浮かぶ7つの島を11の橋で結んだ一大リゾ−トが目の前に広がる。
古くから景勝地として知られた弁天島は、浜名湖と遠州灘の風光明媚な自然の中で、温泉と海水浴などのレジャ−を楽しめる観光地として発展してきた。島の一つに乙女園があり、島の西端にある観光スポット浮見堂は、列車からも良く見えて美しい眺めになっている。この島にある魚藍観音は、うなぎ供養のために建てられたもので「うなぎ観音」とも呼ばれる。毎年8月には全国から養鰻業者が集まり、盛大なうなぎ供養が行われるが、浜名湖ならではの祭りである。

 箱根と並ぶ東海道の関所・新居関所跡は、江戸時代の関所施設として唯一現存するもので、簡素な建物だが白い砂利が敷き詰められた前庭のコントラストに威厳を示している。奥浜名湖を抜ける姫街道には気賀関所が設けられて、南北の街道の要所を二つの関所が監視した。「入り鉄砲に出女」こと江戸への武器流入と江戸からの西国大名家子女の脱走を厳しく取り締まっていた。
 白い砂利に木が植わった一隅があり、根元に立てられた句碑を眺めていると『俳句をなさいますか?』と突然初老の男性に声をかけられた。自然石に刻された句碑に、腕組みをして眺めたり、表面の砂埃を拭ったりしていたので勘違いされたのだろう。渡された紙片には“新居の文学を訪ねてみよう”と書かれて、絵図に句碑や歌碑の写真と解説が載っていた。私にその心得はないが、親切心が良く分かるだけに素っ気ない返事も出来ない。『ご親切にどうも、是非見せてもらいましょう』その男はもっと話を続けたい素振りを見せたが、ぼろの出ないうちにとその場を退散した。元々遠回りまでして見る気もないが、歌心ありと見られたことに悪い気はしない。
 関所の近くには、常時120隻もの渡船が用意されていた「船囲い跡」があった。現在は埋め立てられて往時の様子は伺い知れないが、標識だけがポツンと立てられている。

                   潮見坂峠の眺望

 豊橋支店勤務の頃は初めての愛車パブリカで、家内の在所浜松へしょっちゅう行き来していたが、浜名湖競艇場が1号線脇にあり、競艇開催日には大渋滞を引き起こしていた。競艇が開かれる日にはもう一つのル−ト多米峠を抜けて、奥浜名湖の姫街道を使ったので、競艇はやらなかったが開催される日程だけには詳しかった。何度も通った道だが、1号線と並行した山側に旧東海道が残っているとは知らなかった。
 潮見峠はその名のとおり、峠から眺める遠州灘が素晴らしい眺望を見せていた。かつて急勾配の曲がりくねった峠道を、大型車が大量の排気ガスを吐き出して喘ぎ喘ぎ登った光景は、海岸線に浜名バイパスが造られ、その後には潮見トンネルでショ−トカットする姿に変わってしまった。長距離トラック相手の食堂とモ−テルが建っていた光景を今はもう見られない。
 山道を登りきった白須賀宿の入り口に、古い石碑などが並んだ展望台があり、そこに思いもしなかった昔懐かしい潮見坂の眺望が残っていた。夢中になってシャッタ−を押したが、悲しいかな素人写真では眼前に広がる遠州灘は空と海だけで、面白くも何ともない。だからその眺めをここではお見せできない。

                 白須賀宿と二川本陣跡

 白須賀の地名は「白い砂洲の上に拓けた集落」の筈だが、峠を越えた高台のこの地が何故?と思ってしまう。元は潮見坂下の海辺に拓けた宿場だったが、およそ300年前の大津波で壊滅的な被害を受けて坂上へ村ごと避難したのだそうだ。
島国日本では数多くの被害が繰り返されたことだろう、面白がることではないが海外でもTsunami の単語があるという。それにしても一瞬にして何もかもを呑み込んでしまう津波はつくづく恐ろしい。

 私が知る二川は岩屋観音ていどで、いわゆる観光地としてのイメ−ジではない。
平成に入ってからのことだが、旧二川宿本陣馬場家が公開され、隣には立派な資料館が建てられた。現在、東海道に残る本陣はここ二川と草津の二ヶ所だけだそうで、格調高い往時の姿を見せている。大名など身分の高い人々の休憩場所・上段の間は流石に立派で、迷路のように広い施設内の他にはあまり公開されていない雪隠(トイレ)や風呂場などが見られて面白い。

                 吉田宿と聯隊記念碑

 豊橋城址公園の一隅に「此処に歩兵第118聯隊ありき」の記念碑が忘れられたようにひっそりと建っていた。
当時の私にその知識は無かったが、転勤した先々で私の出身地の話などの時、むかし豊橋の練兵場で訓練を受けたとか、連隊に所属していたと懐かしそうに話す人たちと多く出会った。明治新政府になって、ここに第15師団司令部が置かれたので、豊橋は軍事都市として繁栄した時代があった。
私にとって兵舎のイメ−ジは所詮映画などの記憶でしかなく、当時どこにでも見られた建物は、兵舎跡が学校になったのか、学校の校舎が兵舎として使われたのかは知らない。娯楽の少ない映画全盛と云われた頃、「二等兵物語」の映画ロケに大学の校舎が良く使われた。伴淳・アチャコのシリ−ズものだったが、使われた古い木造建物はもう探しても見つからない。

          吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振袖が
          御油や赤坂吉田がなくば何のよしみで江戸通い
 往時の吉田宿はとても華やかな宿場で、客引きを伝える様子が俗謡に残っている。江戸から旅立っても京からでも、この吉田・御油・赤坂あたりまで旅を続けてくると、そろそろ羽目を外したくなる頃で、ホ−ムシックにかかる頃合の宿場だったそうだ。
 吉田城の前身は今橋城と云い牧野古白が築城した。池田照政が城主となり本格的な築城に取り掛かったが、照政は建築半ばにして姫路に移封されてしまった。その後小藩の悲しさで完成されることはなかったが、安藤広重が描いた浮世絵の構図とそっくりだといわれる二の丸が美しい姿を見せている。
 今橋城を最初に築いた牧野古白の元の居城・牛久保城が、思わぬところから話題になったことがある。幻の戯曲といわれた山本有三の「米百表」の劇中、重要なキ−ワ−ドとして登場する「常在戦場」の壁書きがこの三州牛久保城にあった。牛久保は私の故郷から2キロほど北の隣町で、著名な豊川稲荷への中間くらいの町である。
JR飯田線・牛久保駅に近い神社の石柵に、「牛久保城跡」と書かれていたように記憶している。久しく訪ねることもないが、ひょっとして「米百表のふるさと」なんて書かれているのだろうか。

              奇妙な大騒動「ええじゃないか」

 豊橋市牟呂町はJR豊橋駅から西南の方向に向かった町である。
幕末、牟呂の地の神社にお伊勢さんのお札が降り、これが契機となって派手な衣装を身に纏い『ええじゃないか!ええじゃないか!』と叫び大騒ぎする一団が現れた。
この騒動はまたたく間に東海道を東西に駆け巡り、江戸・京・四国にまで大流行したそうだ。
 神社の名が分からないので、牟呂八幡社へ向かった。が、境内にそれらしい解説は見当たらない。散歩中の老人に尋ねてみると、この八幡社は火災に遭って古いものは残っていない。「おてんのうさま」のことではないかとも云う。其処へも廻ってみたが何もない。結局のところ奇妙な大騒動の中身のように何も分からなかった。
 各地で同時発生的に起こったとされる騒動は、神仏の各種のお札・お祓いが降下して、幕藩体制下の日常的な抑圧から自己解放の「世直し」気運の発生だとか、倒幕を企てた一味による陰謀説もあるが、その真相は未だにこうだとは解明されていない。
群集が地主の庄屋や金持ちの商家へ土足で入り込み、押し込まれた家は酒や肴を振舞わないとその家に災いが起こるとされたそうだ。そもそもこの騒動には、何時・何処で・誰が如何したなどの確証がある訳でもない。それにしても奇妙な大騒動である。
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