『ノスタルギガンテス』寮美千子 パロル舎
ママに捨てられた「メカザウルス」をゴミ置場から救い出した「ぼく」は、『森の公園』にある古い木の上の枝に括りつけた。やがてその木の「神殿」にはどこからともなく『キップル(役に立たなくてもともてすてきな物たち)』が集まってくるようになる。海から打ち寄せられた漂流物のようなキップルに占拠された木を、公園管理局はゴミとして伐採しようとするが、その木が命名家によって『ノスタルギガンテス』と名付けられたことによって、芸術として「保存」されることになる。「ぼく」の目に写る光景には誰も気づくことなく・・・・・・。
どんな言葉にも文章にもそう簡単には感動できなくなっている自分も、まだこれだけ驚くことができるのだなあと。けっして奇をてらった文章ではなく平易な言葉で書かれていますが、そこから溢れでてくるイメージの豊潤さは尋常ではありません。映像的な濃度が高くて溺れそうなくらい。
人の営みのはかり知れない不思議さと愚かさを閉じ込めたようなノスタルギガンテス。何で生きているんでしょうね、人間って、という根源的な問いに墜ちてゆきそうな気分になるのですが、『星兎』を思いだすと救われる気がします。
『ノスタルギガンテス』はわりと文学色が強く、私としては非常に気に入っていますが、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を彷彿させる『ラジオスターレストラン』(寮美千子/パロル舎)は、ファンタジックかつスケールの大きな非常に美しいSFで、一般的なお薦め度としてはこちらの方が上かも。ちなみに、私の一番のお気に入りは、余計なものをすべて取り払った極めてシンプルな物語、『星兎』です。
以下、とっても個人的な話。
わたし的にはPlastic Tree* と重なるように出会うあたりが、本当にはかったようなタイミングだなあと思います。時節柄「21世紀に持っていきたいもの」というお手軽なコピーが巷に出回っていますが、「持っていきたいもの」より「置いていけないもの」が切実に必要なものであって、そういう意味で、今ここへきてなぜ Plastic Tree なのか、寮美千子なのかというと、まさにこれらが自分にとって「置いていけないもの」なのだろうなあという感じがします。
無味乾燥な(と思われる)世界を無味乾燥と思わずにいられる人が、まあ世の中の大半を占めていて、その中で違和感を抱えつつ、それでも大人になったらそれなりにぴったり世界にフィットするのかと思いきや、どうやらそういうものでもないらしいということにようやく諦めを覚えつつある今日この頃。(どうやら同じような感覚をもっている人は他にもいるようだということもわかったし。)さすがに十代の子たちを見ると自分もなにがしか成長したものがあるようだとは思いますが、愕然とするほど変わっていない所もあり。そーいう自分を否定しないために必要なものがあれやこれやの「置いていけないもの」なのだと思います。(単なる避難所なのかもしれないけれど。)
*マイナーバンドの名前なので知らない人はムシしてください。
『星兎』寮美千子 パロル舎
評判の高さは知っていたのですが、童話的世界のせつなさにはあまり向かない自分に、果たしてしっくりくるのかどうか自信が持てず今まで読まずにいました。この度なんとなく、単に大長編を読む時間も気力もないので、わりと簡単に読めそう、という理由で手に取って見たわけですが・・・・・・衝撃でした。
散文的に書くと、一人の孤独な少年が、正体不明の「うさぎ」に出会い、仲良くなって、そして別れる話、なのですが、この不思議な物語空間はお話という領域を越えてしまっている感じがします。ここにあるのは世界そのものであり、存在そのもの。余分なものをそぎ落としてそぎ落として、残ったものにはすべてが含まれている。シンプルな物語だからこそ、ストレートにうつくしさ、かなしさ、そしてつよさが伝わってきます。
「ぼく」についても「うさぎ」についてもあえて解釈はしたくなくて、ただあるがままそのままにしておきたいという感じです。何がすごいって、たとえば異世界ファンタジーのようにどこかまったく別の世界に行ったような気がしたわけではなく、物語世界に入り込みながら、同時に自分の世界がぬりかえられたような気がしたところですね。
美しいとか切ないとか、言葉で表現しようとすると、何だかとても表面的で、こんな根源的な作品の前にはただただ立ち尽くしてしまう自分がいるだけです。何かを伝えたいと願うならば、ただ「ありがとう」とだけ綴り置きたい気がします。
願わくば、一人でも多くの方にこの『星兎』とのすばらしい出会いがありますように。
『0番目の男』山之口洋 祥伝社文庫
祥伝社400円文庫シリーズに『オルガニスト』の作者が書き下ろした近未来SF。
ウズベキスタンの町外れにある会員制のマカロフ・クラブに集うのはたくさんの<<マカロフ>>たち。
同じ遺伝子をもつ彼・彼女らは、2010年に世界規模の環境問題を解決するために、優秀な人材を大量供給すべく走り出したクローン計画の産物だった。1000人にものぼるクローンたちの”親”である環境工学技術者マカロフは、「あり得たかもしれない自分」を見るために、70年の人口冬眠を経てこの世界で目覚めたところであった。
私はもしかしたら中編に向いてないのかもしれないけれど、『puzzle』に引き続き、この作品ももうちょっと書き込んでほしいなあ、という感じがしました。まあ、それだけいろいろなアイディアが惜しみなく詰め込まれているということでしょうが。(例えば、<<千番台>>ネタだけで一冊書けそうな気はしますし。)物語にすっと入り込ませる導入は非常に上手く、どうなるのかなあと思いながら、あっという間に読んでしまいました。ただ、2080年の世界が日常レベルであまり変わっていないように感じたのは、逆によく考えるとちょっと違和感で、環境問題に本気で取り組んだ結果なのか、それともウズベキスタンだからなのか。(なにか読み落としているのかもしれませんが。)
『マルコビッチの穴』の映像を忘れられない状態でこの作品を読むのはちょっと失敗、というか、もったいないことをしたという感じ。(違うんだけどやっぱり連想しちゃいます(^^;。)
あと、泣かせのエピローグ(だと思うのだけれど)では、私はちょっとシニカルになってしまいました……。
ともあれ、もっとこの作者のSF作品を読みたいですね。
『翻訳夜話』村上春樹/柴田元幸 文春新書
大学、翻訳学校の生徒を前に、村上春樹と柴田元幸が翻訳について語った内容を起こしたもの。
翻訳術のようなテクニカルな内容ではなく、作品への愛や文体のリズムといった本質的な話です。翻訳書がたくさんあることは知っていますが、翻訳者として村上春樹を意識したことはあまりなかったので、真摯に翻訳に取り組んでいる様子や彼にとっての創作と翻訳の関係など、認識を新たにするところが多く非常に興味深く読みました。いわく、翻訳をするということは、何かを真剣に学びとろうという作業で、自分の作品レベル以下の作品の翻訳は正直つらい等々。
メインディッシュは「海彦山彦 村上がオースターを訳し、柴田がカーヴァーを訳す」のパートですが、これは一読の価値あり。テキストは"Collectors" と"Auggie Wren's Christmas Story" 。読み比べると確かに全体から立ちのぼってくる雰囲気が違うのです。それぞれ、カーヴァーは村上訳、オースターは柴田訳の方が、なめらかで違和感がなく、その場の空気がまったく乱れない感じ。単独で読めば、村上オースターも柴田カーヴァーもなんら問題なく読めると思いますが、比べると色の違いがでてくるのですね。
自分が愛する作品だけを訳出できる翻訳者はそうそういないのでしょうが、少なくとも私が村上春樹の訳書をあまり読んでいないのに比べて、柴田元幸の訳書はかなり読んでいるということは、好みに忠実な選択としては正しい近道なのでしょう。
『puzzle』恩田陸 祥伝社文庫
祥伝社15周年記念特別企画、書き下ろし中編400円文庫シリーズの中の、テーマ競作「無人島」の一作という位置づけ。分厚い長編の次に、短編アンソロジーブーム、と来れば、次は中編だ、という発想もストレートだし、まあ実際忙しいと長編を読み始めるのはおっくうだけど、このくらいの薄さならさっと読み終えられる、という感じはありますね。だから、企画としては非常におもしろいなあと思うのですが、この作品について言えば「読み足りない!」と思ってしまいました(^^;。
無人の島で3人の死体が見つかった。餓死、高層アパートの屋上に墜落したとしか思えない全身打撲死、感電死、とそれぞれ死因が異なる謎の遺体は、まったく関連性のないようなコピー記事を身に付けていた。
遺体の一人と同級生であることが判明した検事・黒田志土は、同期の関根春を連れて、コンクリートの堤防に囲まれた廃墟の島を訪れる。ちぐはぐなパズルのピースが集められ、あるべきところにはめこまれた結果そこに描きだされる絵とは・・・・・・。
これはまったく予想のつかない展開でした。さまよえるオランダ人にスタンリー・キューブリックといった単語だけでなにやら心おどる冒頭の記事から???という感じで、一体どこに着地するのかと。関根春の推理パートもおもしろいのですが、やっぱり非日常的世界へと入り込む後半が恩田陸の本領発揮というところでしょう。この第三部だけで、一冊文の分量は楽に書けるのでは、という感じで、「もうちょっと読みたい」と思うことしきり。