2000年6月



『愛の見切り発車』柴田元幸 新潮文庫
 ポール・オースターはじめアメリカ文学を中心に数々の翻訳を手掛けるとともに、東京大学で教鞭をとる作者の書評エッセイを集めたもの。

 「この人が訳した本なら読んでみよう」と思う訳者は、私の場合、浅倉久志氏とこの柴田氏だけなのですが、とりわけ「文学」という広大な海原から奇跡のように私好みのおもしろい作品を紹介してくれる柴田氏には多大な感謝の念を覚えずにはいられません。

 ここに集められたエッセイでは、オースター、エリクソン、ミルハウザー、ヴェネガット、カズオ・イシグロなどなど。柴田氏が訳出したものもあればそうでない作品もあります。どのエッセイを読んでも、作品のエッセンスが凝縮されていて、あたかも手に取って読んでみたかのように作品の手触りが伝わってきます。そこに述べられているきちんとした考察は柴田色抜きではありえないにも関わらず、評者の個性がうるさく前面にでることなく、作品の個性が浮き彫りにされており、「読んでみたい!」と思わせます。まさに書評エッセイの理想ですね。

 未知の作家への好奇心が刺激されるとともに、既知の作家については「なるほど、なるほど」と新たな発見があったり、未訳本の紹介といったうれしい情報もあったり。

 こんなにおもしろそうな本をた〜くさん鼻先にぶらさげられて夢見心地の反面ふと我に返ると、いつ読めるのかと・・・。まあ、とりあえずはリチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』を確保しておこうかしらん。



『レキオス』池上永一 文芸春秋
 『バガージマヌパナス』の池上永一の最新作。沖縄を舞台に時空を越えて繰り広げられる壮大な物語。
 マジックリアリズムと言われても今一つよくわからないのだけれど、これは沖縄でなければ描けない異色ファンタジーとは言えるでしょう。

 白人との混血の母、黒人の父をもつデニスはアメレジアンの女子高生。ある夜、天久開放地の空に炎のペンタグラムが描かれるのを目撃する。その中心に現れた逆さまの女、すさまじい怨念を抱えたチルーは、デニスの身体に宿ってしまう。デニスはチルーが元の姿に戻るための人探しを手伝うが、ユタを通じて見つけだした友庵は「時間の矢」という魔術に縛られて動けずにいる。彼を解放するにはレキオスの力が必要だが、レキオスを蘇らせればこの世は終わりだという。沖縄に封印された巨大な力・レキオスを追い求める謎の米軍将校キャラダイン中佐、彼の指令に不可解さを覚えながらも渦中に巻き込まれるヤマグチ少尉、奇態で周囲を煙にまくサマンサ・オルレンショー博士、その他CIAや謎の地下組織まで登場し、徐々に根幹となる仕掛けは異端の魔術にのっとった時空を越えた壮大なプロジェクトであることが発覚してくる。レキオスが目覚めた時何が起きるのか?

 アメリカ人でも日本人でもないアメレジアン、デニスの視点を通して、2000年沖縄=”今”の問題を垣間見ながら、それに歴史的視点が重なり、あれよあれよという間に壮大な物語に広がっていきます。のりとしてはユーモラスで、アニメちっくで、ラストはものすごく出来のいい特撮を見ているような印象でした。自分がむちゃくちゃ忙しい中で細切れに読んでいるせいもあって、物語世界に入り込んでしまう、というよりは、「これはこれは大変だね〜」と感情的にはちょっとひきながら読んでいたのですが、でもそれは「のれない」とか「おもしろくない」というのとはまた別で、「わー、こんなこともやっちゃうんだ〜」みたいな感じ。
 かなりおもしろい題材がいろいろでてくるので、もうちょっと書き込んでもいいのかなあという気もするのですが、唐突さと飛躍のテンポのよさは表裏一体なのでバランスをとるのは難しいところかも。むしろ、蘊蓄を大量に詰め込む物語がはやる一方で、この作品の場合相当量あるはずのバックグラウンドをすぱっと切り捨てて、あくまで物語自身に語らせている所をほめるべきかもしれません。

 キャラクターは非常に個性的でそれぞれおもしろく、小道具もひねりが利いていて受けました。ロミヒーとか、一歩間違うと笑えなくなるぎりぎりのユーモアセンスがいいですね。特別のお気に入りは「お祝いだからねー。お祝いだからねー。」と声を張り上げながらポーポー焼きの屋台を引くマチーとガルー。不思議なあたたかさが心にしみてきます。

 それにしてもセヂ理論って応用普遍ですよね。セヂとはある種の精神エネルギーで、表面的には運の強さのようなもの。人は各々生まれつき持っているセヂの量が決まっているが、時にはサマンサのように意志の力で周囲のセヂを奪いとり、後天的に莫大なセヂを獲得し、都合のいいように運命を改竄する力を持つ者もいる。というものなのですが、これをあてはめるとヒーローが死なない理由も説明できちゃうし、きっと「フォース」もセヂの別名なんだと思います(笑)。

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