『麦の海に沈む果実』恩田陸 講談社
かつては修道院だった、湿原に囲まれた全寮制の学園。「三月以外に入ってくる者がこの学校の破滅に導く」という言い伝えがあるこの学園に、理瀬は二月の終りに転入してきたのだった。艶やかな校長が取り仕切るこの学園は俗世から隔離され、独自の法則で動いていた。どこか奇妙な空間で最高の教育を受ける生徒たちには秘密が多い。理瀬が属する「ファミリー」という学年混合のグループでは、半年間に二人も人がいなくなっているという。お茶会で交わされた二人の行方の話題は交霊会を招き予期せぬ事件が起こる。事件は未解決のまま季節変わりと共に次々と学園の行事が巡ってくる。そして、さらに事件が・・・。
『三月は深き紅の淵を』第四章の断片的なモチーフから発展した堂々たる長編。ただし、物語の展開は異なるため、別の三月の国の物語とも言えます。
浮世離れした西洋風の学園生活の中で展開されるミステリーは、どこか夢の中で見た物語のような非現実的な感覚が最後まで消えませんでした。それがまた実に心地好い。『三月は深き紅の淵を』を読んだ時には、いわゆるオチがない結末に宙ぶらりんな状態で放り出されたような気持ちがしたのですが、恩田陸作品の魅力は実は必ずしもオチとは関係がないのではないかという気がしてきています。この作品の場合、一応「あらびっくり」までついたきちんとしたオチがありますが、ラスト一行の感動はそのオチとは必ずしも結び付かないし、まして、物語の途中のどきどきやはっと胸をつかれる思いは、ストーリーと共に流れ感動が増してゆくというよりは、その場面、場面に凍結した思いのような気がします。この結末が気に入らないということではなく、この作品の魅力は結末がありながら結末を越えて自分の中で「終わらない物語」になっている点ではないかと思うのです。『三月は深き紅の淵を』のモチーフと一致しない展開であることもその理由の一つですが、すなわちこれは「理瀬の三月の国の物語」であり別の三月の国の物語も存在し得るし、しかも、その一つではない重層的な世界を包含しても違和感のない物語であるということ。なんとも言えない不思議な魅力です。
理瀬はある意味で女の子の変身願望を見事に具現化したようなキャラクターですね。「完璧な女の子」でありながらそれに違和感を覚え、やがて全てを手に入れる強靱さをもった「本当の自分」を見い出すのですから。その意味では校長というキャラクターもその延長とも言えますが、しかし、このキャラクターは好きですね。絵になりますし。
絵になると言えば、今回一番気に入った場面は図書館で泣いていた理瀬に黎二が詩を聞かせるシーンです。完璧な”心の映像”として切り取って永遠に保存しておきたいシーンです。
もっとリアルだったり、あるいは逆にもっと非現実寄りだったりと、このところ恩田陸の作風も広がりがでてきましたが、私は『三月は深き紅の淵を』やこの作品のような不思議な雰囲気には理屈抜きの思い入れがあります。
*関連作品についてはこちら。
『ネバーランド』恩田陸 集英社
たとえばちょうどよい湯加減のお風呂、ちょうどよい塩加減のお味噌汁、ちょうどよいゆで加減のスパゲッティ・・・単純なことだけれど、「ちょうどよい」を見つけるはとても難しい。そんな個人的なちょうどよさを私はこの『ネバーランド』に感じました。(もちろん、人によってはもっと熱いお風呂やからいお味噌汁や堅いスパゲッティが好きな人もいるでしょう。)
冬休みに寮に居残った4人の少年。それぞれ家に帰ることができない理由を抱えた彼らの、普段の学園生活とは異なる”非日常”的な共同生活が始まる。その中で、それほど親しくなかったはずの4人になにやら共犯関係のような雰囲気が生まれ、毎夜、各自の過去にまつわる告白大会になってしまう。
過ぎ去ってから気づく”黄金時代”、その場にいる時は苦さばかりが感じられるけれど実はかけがえのないきらきらと輝いた時間、そんな青春の切り取られた時をさりげなく演出してみせます。同作者の『木曜組曲』の少年版という感じですが、『木曜組曲』の女性像が笑えるほど妙にリアルだったのに比べると、こちらはもしかしたら女性が見たいと思っている少年像なのかもしれません。よくできた映画のシナリオや少女漫画の展開は定石通りにもかかわらず観客の心をつかむように、この作品でも定石通りの展開が白々しく見えないのは、4人のキャラクターがきっちりしていてそれぞれの言動が状況にぴったりはまるからでしょう。
思い入れの深さとは異なるのですが、この作品はひそかに私の中の「ネバーランド」であたためておいて、時折そっと取り出してみたくなるような作品です。