風邪薬の誘惑  

 

 午後から降り始めた霧雨が、日が暮れてから雪に変っていた。
 左手に時折見えていた日本海が、今は漆黒の空に溶け込んでいる。かなり荒れ狂っているのだろう。強い海風にあおられて、ドア脇にユニコーン製薬と大書された小さな軽ライトバンは吹き飛ばされそうであった。ハンドルにしがみついている鷹島の口許に、自嘲の笑みが浮かぶ。会社そのものが、正に吹けば飛ぶようなローカルな製薬会社なのだ。
 後部座席に散乱している商品サンプル、キャンペーン用の子供だましの景品、書類、そして膨れ上がったボストンバッグが、一ヵ月のキャラバンセールスの疲れを象徴していた。
 営業調査課に所属する鷹島は、津々浦々に点在する新規顧客の開拓に、社内には月の半ばもいない。広大なテリトリーで、市場開拓の傍ら、ご用聞きセールス、納品代行、売掛金の回収そして薬局の店員の手伝いまですべて一人でこなさねばならない。
 走り慣れている国道を外れ、海沿いの裏街道を二時間近くハンドルを握り続け疲れていた。肉体的にもそうだが、むしろ精神的に疲れ切っていた。商品サンプルの強壮ドリンク剤を一気に二本も飲んだが、いつものことながらまったく効き目はなかった。もともと、この薬効のなさが鷹島の疲労感の原因でもあった。
 東京の薬科大を卒業後、大企業や病院勤務は性に合わないからと、あえて北陸の小さな製薬会社の営業マンになった。三十も半ばになった今になって、人間関係が煩わしかろうと単調な仕事だろうと、やはり大会社に勤めるべきだったのではないかとの悔やみが出る。
 ユニコーン製薬の社長はいつも「良い薬が売れないわけがない。売れないのは営業力の不足のためだ」と口癖のように言っている。確かにそれは正しいと鷹島も思う。しかしこの業界における営業力とは、テレビなどのマスメディアを使った宣伝をどれだけできるかなのだ。営業力と言うより企業力である。今は、良いものならそれだけで売れると言う世の中ではない。薬や化粧品のようなイメージ商品は、そのコストの大半が宣伝費とパッケージ代で占められている。それを「見てくれや宣伝なぞに頼るのは商いの邪道」と一顧だにしない頑迷な企業姿勢では、時代に取り残されてしまうのは目に見えている。
 製薬の流通における問屋の力は、流通革命が標榜される今でも強大である。問屋からそっぽを向かれては、製薬会社の販売は成り立たない。だからどこでも問屋を大事にしている。しかし、ユニコーン製薬は、問屋より薬局、薬局より消費者に顔を向けて商売をすることが、社是となっている。経営効率、マスセールスの観点から異論があっても、社内では鷹島以外だれも口にするものはいない。
 さらに、ユニコーン製薬は医家向けの販売ルートが弱い。これも業績の上がらない原因の一つだった。
 健康保険制度が浸透すればするほど、薬局の売上は落ちる傾向にある。ちょっとした風邪や腹痛さらには軽い怪我、水虫でも、保険を使わねば損だと思っているのか、人々は病院に気軽に足を運ぶ。年寄りは特にその傾向が強い。今や病院の待合室は老人たちの憩いの場、社交場になりつつある。
 それでも本当に良い商品ならば、それなりに何とか売りようがある。誇りと自信が持てれば、営業力に反映されるものなのだ。しかしながら研究開発室サイドの自信とは裏腹に、
 ユニコーン製薬の良い評判は問屋筋でも小売店でも聞いたことがない。自分でも風邪気味や二日酔いのときには、自社の薬を使うがまともに効いた例がなかった。
 
 明日のセールス予定先である山本ファーマシーの女主人、山本良枝に会うのが気が重かった。けっして良枝が嫌いな訳ではない。むしろ同い年であることを知り、近しい感情を抱いていた。東京でOL生活をしていたころの話や世間話で小一時間もつぶすようにまでなっていた。足しげく通ったのが功を奏したのか、この秋口からやっと店の端に、小児用の風邪薬を置いてもらえるようになった。山本ファーマシーは店構えは小さいが、付近に競合店もなく立地条件も悪くないから、かなりの売上が期待できた。
 今回も南に下るとき挨拶に立ち寄った。その時の光景が思い出される。
 
「鷹島さん! 何よ、あんたのとこの薬ぜんぜん効かないじゃない! 棚の物みんな持って帰んなさいよ!」
 良枝は鷹島の顔を見るなり、ひどい剣幕で怒鳴った。奥で義母が、四才になる息子がむずかっているのをあやしている。夫は去年交通事故で他界していない。
「何かお客さんからクレームでも?」
「クレーム? そう、大クレームだわ! うちの広司よ。広司が風邪ひいて熱出したからあんたのとこの薬飲ましたんじゃない。カプセルだけど小さくて子供でも飲みやすいって言うから。それが何よ、ちっとも直る気配もないわ」
 そのカプセル錠は今年認可された新薬で、ユニコーン製薬で特に販売に力を入れている製品である。小児用だから自分で試したことがないので、効くのかどうかは分からない。しかし今までの経験からしても、女主人が嘘を言っているとは思えない。
 水薬あるいは粉薬は吸収も早く、多種の薬剤を調合するのも比較的容易である。だが粉薬は子供に飲ませづらいし、何よりも子供が飲もうとしない。一方、水薬は甘くするために余計な添加物を加えねばならず、コストも高くつく。また計量にも不便で、保管管理に神経を使わねばならないと言うディメリットもある。
 しかし、錠剤やカプセルは、五才以下の小児用には直径が六ミリ以下でないと認可されないと言う大きな問題がある。風邪薬は、解熱剤、鎮痛剤、ビタミン類そして胃腸薬など多くの薬剤を盛り込まなければならない。小児用だからそれぞれの分量は少ないとはいえ、直径六ミリの中に、多種多様の薬剤を封じ込めるのは技術的に困難である。だからユニコーン製薬以外の小児用の風邪薬は水薬しかない。
 ユニコーン製薬で開発した小児用カプセル錠は、果粒状の薬剤を極薄いソフトカプセルで包み、飲みやすくできている。直径は三ミリしかない。ゼラチンのカプセルのお陰で、腸で吸収されるから、胃を荒らす心配がない。それだけは事実なのだ。
 カプセル製造は高度な技術を必要とし、多くの特許問題があるので、国内ではほとんど製造されていない。米国のP社が最も進んでいると言われている。ユニコーン製薬の社長はP社に乗り込んで、自社で考案した小径カプセルの製造技術を無償で提供する見返りに、この特殊カプセルを作らせてしまった。それが自慢の種でもあった。ただしコスト上、百万粒以上引き取る条件付きであった。
 厚生省は副作用には神経を尖らせるが、薬効には寛大である。大した効用がなくとも、定められた臨床データを提出さえすれば、比較的容易に認可が下りる。何の役にも立たない薬を作る会社も会社だが、それを認める厚生省にも腹が立ってくる。
「浩司君、どんな具合なんです? 熱がまだ下がらないんですか?」
「そんなこと聞いてどうすんのよ。医者でもないのに」
「でも…単純な風邪じゃないかも…」
「今度は人を驚かす気? 自分とこの責任を棚に上げて、まったく」
 確かに近県で風邪が流行っている。店の客が菌を運んできた可能性は高い。しかし発熱を伴う病気は数多い。単なる風邪と極め付けて処方を誤ると、薬害があるだけでなく手遅れになる危険すらある。薬局の主人だからと言って、冷静に判断できるとは限らない。
 鷹島はそんな心配を本当にしてたわけではなかった。非協力的な問屋の吉田薬品の頭越しでやっと押し込んだのに、まさか「ええ、うちのは副作用がないだけが取柄で」と本音を言うわけにもいかなかったのだ。
「念のため明日にでもお医者さんに診てもらった方が…一時的に熱は下がっても…吐き気でもあれば肝炎てこともありますし…」
「肝炎? 冗談じゃないわよ。うちは薬屋よ! 風邪か肝炎かどうかぐらい分かるわよ。いいからみんな引き上げて帰ってちょうだい!」
 その日はどうにか逃げ出した。が、いずれ吉田薬品に商品を引き上げさせねばならない。話を付けるのが面倒だからと言って自分で運び出せば、伝票決済処理で一悶着起きるのは必然だ。
 こんな薬局とのごたごたなどは問屋のすることで、製薬会社のそれも営業調査課の名刺を持った男のするような仕事ではない。そんな愚痴を言っても始まらなかった。
 
 鷹島はいやな思いを振り切ろうと、頭を振ってハンドルを握り直した。
もう七時近い。行き交う車も少なくなった。今夜泊まる予定の青風荘までまだ一時間近くある。食事の用意はしてくれないだろうから、どこかで済ませておかねばならなかった。アクセルを踏む足先まで冷え切っていた。
粉雪が舞う前方に、赤ちょうちんがぼんやり見えた。食事ができるのか定かではなかったが、車を道の脇に寄せた。
 小さな丸テーブルが一つと、六人掛けのカウンターだけのラーメン屋であった。カウンターの後ろの隅で、大陸系と思われる小柄な爺さんが、読んでいた新聞からひょいと顔を上げて、背を丸めて飛び込んできた鷹島を目と顔だけで迎えた。
「タンメンにライス…それに餃子」
 カウンターの椅子に座るなり、品数の少ないメニューが書いてある壁を一瞥して注文した。爺さんは軽くうなずいただけで調理台に向かった。
 テレビもなく、客が置き捨てていった古い週刊誌が二冊カウンターの下にあるだけだった。野菜を炒める派手な音と匂いが広がる。所在なく鷹島は狭い店内を見回した。
 後ろ奥の丸テーブルには三人の親子連れが座っていた。あらかた食べ終わったのか、あまりにもひっそりとテーブルを囲んでいたので、それまでその存在すら鷹島はほとんど気が付かなかった。
 鷹島に背を向けて座っている男の肩越しから女の顔が見えた。トレンチコートの前だけを寛がせて、スープをすすっている。鷹島の視線を感じたか、ふと顔を上げた。化粧気のない、育ちの良さそうな痩せた女であった。鷹島と目が合うと、視線を逸すように隣の子供に話し掛けた。
「たっくん、もういいの? いっぱい食べてね」
 母親の手編みであろうか。太目の毛糸で編まれたプルオーバーを着た三才ぐらいの男の子は、こくんとうなずくと、素直に手にしていた漫画を置いた。椅子の上にきちんと正座をして、小鉢に分けられたラーメンを食べ始めた。母親がその頭を愛しそうに撫でる。
「あなた、まだ遠いの?」
 鷹島を意識して声は小さい。
「いや」
「そう…しょうがないわよねぇ…やるだけのことはやったんだし…」
 半分自分に言い聞かせるように、ぼそぼそと独り言を言っているが、鷹島にははっきり聞こえてこない。その間、子供は黙々と箸を動かし、食欲がないのに無理してソバを口に押し込んでいる。自分が食べることで、寂しげな母親を何とか喜ばせたいと言ういじらしい仕草であった。
 鷹島は子供嫌いである。周りの迷惑にとんと無頓着で騒々しく、大人の世界に土足で荒らし回っては神経を逆なでする。稀に落ち着きのある子もいるが、大概は話しをさせると可愛げのないこまっしゃくれたことを無表情でしゃべる。そして生意気と利発の区別が付かない母親は、むしろ得意になって自慢する。それも我慢できないものだ。鷹島は結婚もまだ考えていないが、子供は絶対に作るまいと心に決めていた。
 そんな鷹島であるが、「たっくん」と呼ばれたその子に見入っていた。近頃には珍しく、素朴で屈託のない顔をした子供であった。母親譲りの長い睫の目がくりっとして、宗教画に描かれる天使を髣髴させる。
 背を向けているジャンパー姿の父親の頭に白髪が目立つ。顔は見えないが、鷹島は五十前後かと思った。子供の年令からすると、実の父親ではないのかも知れない。だとすれば、この三人の関係は何なのだろう。国道から外れた、侘しいラーメン屋に子連れでいるだけでも妙な感じである。服装からしても土地の者には見えない。あれこれと鷹島は勝手に想像を巡らしていた。長い間薬局の営業をしている内に、自然とその家の家族構成や力関係を探る習性ができてしまっていた。
「ドーゾ」
 抑揚のないラーメン屋の爺さんの声が鷹島の思考を中断させた。知らぬ間にカウンターの上でタンメンが湯気を立てていた。わけありに見える三人が気にはなったが、カウンターに向き直って箸を取り上げた。
 店構えの割には味は悪くなかった。
 食べ始めると、もう三人のことは忘れた。彼らのことより、鷹島には考えねばならぬことがうんざりするほどあった。明日の山本ファーマシーのこと、半年も未入金のままになっている売掛けの回収のこと、伸び悩む売上成績、田舎に母親と残っている妹の結婚話。そして大して効きもしない薬を作り続けるユニコーン製薬を見限り、転職をすることも考えていた。夢も誇りもない製薬会社の営業なぞ、もうたくさんだった。
 このまま北に八時間も走れば故郷に着く。猫の額ほどの土地だが、そこで野良仕事でもした方が今よりずっと健康的でましな生活に思える。
 やがて後ろで立ち上がる気配があった。
「たっくん、おしっこはいい? 行くわよ。はい、ちゃんとして、お外は寒いから」
 勘定を済ませている男を残して、女が自分のコートで子供を前に包み込んで先に出た。
 立て付けの悪いガラス戸が開けられると、風と共に入ってきた粉雪が店の中でふわっと舞って床に落ちた。落ちた粉雪はすぐ小さな泥のしずくに変っていった。
 三人が去ったテーブルの上には、ほとんど手も付けられていない皿が幾つかと、飲み残したビールがあった。
 のんびりした洗い物の音も終わると、店内は静寂に包まれた。かたかたと風がガラス戸を鳴らす。
 たばこをくゆらせながら物思いに耽けった。
 二本目のハイライトを、薄っぺらなアルミの灰皿に押し付けて消したときには、会社を辞める決心をしていた。
 給料も低いが、独り者の鷹島が生活に困るほどではない。鷹島の不満は他にあった。男として、いや社会の一員として、少しは世の中に役立つような仕事をしたいのだ。毒にも薬にもならないものを、バックマージンを餌に問屋に頭を下げ、押し込み販売するのはどうにも耐えられなくなったのだ。
 そして、街の薬局の一軒一軒をPRして回らせるような、非効率的な営業を頑なに守る社長や、自社の製品の薬効を疑おうともしない研究室の傲慢な連中の顔を思い浮かべるだけで、無性に苛立つのだった。
「勘定!」
 辞表を叩き付ける勢いで立ち上がった。



 道の脇に停めておいた車の屋根も道路も、うっすらと雪に覆われていた。車の中は冷え切っていたが、腹に入れたお陰で寒さはあまり感じられなかった。
 スノータイヤを付けてはいるが、車体が軽いので強い横風にハンドルが取られる。猛スピードのトラックが一台擦れ違っただけで、ほかには車の影さえなかった。
 気晴らしにラジオのスイッチを入れてみたが、雑音しか入ってこない。あまりの静けさに、道を誤ったかと不安になる。
 前方に停車している白いセダンがヘッドライトに浮かび上がった。周りは松林である。スピードを落として近付くと、路肩に突っ込んだ車の脇で女が手を振っていた。さっきのラーメン屋にいた女だった。
 故障か何かなのだろう。たまたま店で一緒になっただけだが、一応顔見知りである。鷹島は黙って見過ごせなかった。転職の決意をして、気が高ぶっていたこともある。
 セダンの前に停まった軽ライトバンに、コートの襟を立てて女が駆け寄った。
「すみません、助けてください」
 ウインドーが下りると同時に、白い息を吐きながら頼み込んできた。髪が風に乱されて、店で見たときよりもやつれて見えた。
「どうかしました?」
「車がどうしても動かないんです」
 降り立ってみると、先程の父親らしき男が左後ろのタイヤの所でうずくまっている。
「落輪ですか?」
「ええ。あ、どうもすみません」
 下から鷹島を見上げた顔は、以外に若かった。鷹島と幾つも年は変らないのだろう。立ち上がると、鷹島よりかなり背が高かった。
「対向のトラックにハンドルを切り過ぎてしまって…雪道に慣れていないものですから…」
「押してみますか? 奥さんは運転できます?」
 牽引ロープがないから男二人で押すしかない。コートの襟の中に半分顔を埋めている女と、途方にくれた顔の男を半々に見ながら尋ねた。
「一応免許はありますが…。直美、後ろから押すからゆっくりアクセル踏んでみてくれ」
 声を合わせて何度かやってみたが、革靴が雪に滑って思うように力が入らない。ぬかるみの深い溝に取られたタイヤは空廻りするだけだった。直美と子供が車の窓から不安げに見ている。
「下に何か敷くものでもあればいいんですがねえ」
 寒風の中で、どちらからともなく同じつぶやきが出た。鷹島の車には商品の薬しか載っていない。短期旅行者である彼らのトランクルームの中にも何もなかった。
 鷹島は黙って自分の車の後ろに回ると、後部ドアを開けた。そして段ボールの中の商品を取り出し始めた。三箱を空にすると、その段ボール箱を平たく潰し、ぬかるみの中のタイヤの下に押し込んだ。
「よろしいんですか?」
「ああ、いいんですよ。何なら中身ごと潰したって…。さあ、もう一度やってみましょうよ」
 思わぬ鷹島の応えにきょとんとしている男を励ますように促した。
 足場を固めてから、二人で渾身の力でセダンを押す。四回試みた。ギヤをバックに入れて、ボンネット側からも押してみたが事態は変らなかった。鷹島はセーターとその上の背広一つだったが、その額にうっすら汗がにじみ出てきた。
 風は鎮まったが、雪は本降りになる気配だ。
 電話をするにも町まで行かねばならない。車でもたっぷり三十分はある。歩ける距離ではない。
「私の車で町まで行きませんか。狭いですがどうにか座れるでしょう。ここじゃどうしようもないし」
「ありがとうございます」
 鷹島の親切な申し出に一応謝意は示したが、二人は困惑したような顔を見合わせている。
「この雪ではほかに通る車もないと思いますよ」 
 鷹島の車はみるからにポンコツである。それで二人が逡巡しているものと思った。何か二人で言いあっている。体も冷えてきた。折角の親切にぐずぐずしている二人に多少腹立ち、車の中に入って待った。そのまま置いて行ってしまおうかとも思ったが、子連れであることを思い出して思い止まった。あの「たっくん」の顔をもう一度見たいとも思う。子供嫌いなのに妙なことだと、鷹島は自分が訝しかった。
 一度止めたヒーターが生暖かい風を吐いている。
「すみません…お言葉に甘えさせて頂きます」
 母親がそう言ってきたのは、五分も経ってからであった。
 後ろの座席はサンプルやバッグで一杯だったが、それでも片付けるとどうにか一人分の席を確保できた。
 眠りからまだ覚め切らない子供を両手に抱えた直美が助手席に座った。しばらく嗅いでいない女の匂いが狭い車内にあふれ、鷹島のイグニッションキーを回す手がこわ張った。
 車は走りだしたが、誰も口を開かない。各自がそれぞれ異なる想いを巡らしているようだった。時折後ろの男のため息が聞こえる。
 四人の吐き出す息が、厳寒の外気で凍てつくフロントグラスを曇らせる。それを拭いたウエスをシフトレバーに置くとき、母子が座る助手席に鷹島の目がちらっと走った。
 直美のコートに包まれて、たっくんは母親の肩にけだるそうに頭を預けている。長い睫の黒目勝ちな目を大きく開けて、闇を切り開いて粉雪を照らすヘッドライトの明りを無心に見ている。頬が赤い。
 たっくんの靴を脱いだ無邪気な足が、直美の両膝に割り込んでいる。スカートが上の方まで捲られて、黒のストッキングに包まれた内腿が、暗い車内に艶やかに輝いて見えた。華奢な容貌にはそぐわないしっかりした肉付のある内腿に、子を持つ女特有のしたたかな色気が漂っている。
「大人しいねえ。名前は何と言うのかな?」
 禁じられたものを覗いてしまったことを取り繕うように、鷹島が唐突に話し掛けた。たっくんは可愛い顔を鷹島に向けにっこりしただけで、答えなかった。
「卓也です。…卓越の卓にナリの也と書きます」
 子供に代って答えた直美の声には、少し落ち着きが見られた。思わぬトラブルに見舞われたが、誰であれ男が一人加わると、女は頼もしくなるらしい。
「卓也くんですか。いい子ですねえ、ほんとに。ちょっと元気ないようですが、大丈夫ですか? 車で酔っちゃったかな、ぼろ車だから。窓開ける?」
 卓也は鷹島の顔から目を話さず、黙って首を振って答えた。
「ちょっと朝から熱っぽくて…」
 卓也の額に直美が手をあてる。
「あのう…失礼ですが、製薬会社の方ですか?」
 積み込んでいる商品の段ボールか、車体の横の広告文字を見て知ったのだろう。直美から次に出るであろう言葉を恐れながらも、問に肯定せざるを得なかった。
「ええ、まあ」
「もしお持ちでしたら、風邪薬、何かお分け頂けません?」
「……」
「いえ、お差し支えがあるなら結構なんです」
 黙っている鷹島の硬い横顔を盗み見て、面倒なことを言ってしまったかと、直美はあわてて後を次いだ。
「差し支えってわけでもないんですが…」
 人の役に立つことなら躊躇はしない。ましてや明日にでも辞める覚悟の会社の商品だ。求められるなら、段ボールごと上げてもいい。しかし、効きもしない薬を、この卓也にそれを提供することが鷹島にはためらわれるのだった。
 また山本ファーマシーの女主人の大声で喚いていた顔が目に浮かんできた。そして新たにユニコーン製薬にふつふつとした憤りを覚え、それっきり鷹島は口を閉ざした。
 道の上は早くもすっかり新雪に覆われてしまった。ヒーターは相変わらず頼りないが、四人の人息でそう寒さは感じられない。
 カーブが続く。曲る度に後部の荷台で、ダンボール箱から出した薬がごろごろと音を立てる。ガードレールは申し訳程度にしか整備されていない。鷹島は対向車がないのを幸いに、左側を大きく空けて道の中央を走った。左に寄り過ぎて、うっかりスリップしようものなら、崖から日本海の荒波に飲み込まれてしまう。
緊張させられる難所も越え、町に近付いた。小さな田舎町である。街頭の蛍光灯がぽつりぽつり白い道路を照しているだけで、人気はまったくない。ガソリンスタンドも店を閉めて灯りが点いていなかった。
「どうします? JAFを呼びますか?」
 後ろの座席で窮屈そうに座っている長身の男に振り向いて声を掛けた。
「そうですねえ」
 まるでひとごとのように気のない返事であった。電話をするにも公衆電話が見当たらない。鷹島の宿で電話を借りることにして車を急がせた。宿と言っても、ビジネスホテルと言った気の効いたものではない。七十近いばあさんと出戻りの娘の二人だけで営んでいる民宿のようなところである。しかし倹約派の出張ビジネスマンには隠れた人気がある。
 街灯のうすぼんやりした青白い明りに、どうにか青風荘と読める看板の所で車を止めた。