鷹島と男は凍てついた道に足を取られながら、宿の玄関にたどり着いた。九時を過ぎていたが表のドアはまだ開いていた。
「こんばんわ、鷹島ですが」
奥に声を掛けると、ちゃんちゃんこを着てころころした娘の女将が出てきた。娘と言っても四十は過ぎている。器量は悪いが愛想はいい。事情を説明すると、快く電話を貸してくれた。
JAFにはすぐつながったが、雪のため事故が重なり、到着するのは夜半過ぎになってしまうらしい。できれば明朝にしてもらえないかとのことであった。
傍らで男の電話の様子を聞いていた鷹島は、これも心配そうに隣で電話のやり取りを聞いていた女将に、部屋が空いているかどうか小声で尋ねた。JAFを待つにしても、子連れでは休む部屋が必要となる。
「ごめんなさいねぇ。珍しく満室なのよ。みなさん年末を控えて忙しいのかしら」
「女将さん、ぼくのとこ相部屋で使ってもいい?」
「え? ええ、うちは一向構わないけど」
まだ受話器を握って考えあぐんでいる男の肩を叩いた。
「よかったら私の部屋で明日まで待ちませんか?」
「えっ、あ、はい。ありがとうございます。本当によろしいんで? じゃあ、そうさせてもらいます」
男は電話口を手で塞ぎながら、ほっとしたような顔をさせた。
「では、明日八時、お願いします。あ、ちょっと待ってください、代りますから」
青風荘の場所と電話番号を伝えるために女将に代ってもらって、男は鷹島に何度も頭を下げた。そして車の中で待っている直美と卓也を迎えに外に出た。
「鷹島さんて優しいのねえ。そうそうおばあちゃんに先月頂いた神経痛のお薬…」
またいやな話になりそうな気配に、鷹島は顔を曇らせた。
「ああ、あれあまり効かなかったでしょう。見本品だから」
先回りして言い訳を言った。渡したのは試供品ではなく正規のものだったが、こんなところで愚痴を聞かされたくなかった。仮に試供品であっても中身に変りがあるわけではない。
「いいえ、おばあちゃん喜んでたわよ。大の医者嫌いな上にほら、この寒さでしょう? 少々痛くても、外に出て病院に行くのがいやで我慢しちゃって、困ってたのよ。あれ少し買っておくことにしたわ」
「そうですか。それはよかった。でも気候がよくなったら、一度お医者さんに診てもらってくださいよ」
山本ファーマシーの息子のようなことがまたあっては堪らなかった。鎮痛剤は比較的成分構成も単純で、どこのメーカーであろうと大同小異だから、ユニコーン社製でも珍しく効いたのだろうと、鷹島は自分で自分に納得させた。
医療機関や健康保険制度が発達したと言っても、売薬の需要がなくなることはない。大方の家庭はちょっとした常備薬を置いている。青風荘のおばあさんのように医者嫌いな人、病院や診療所にいく暇のない勤め人、海外旅行などでの出先、あるいは医療機関が近くにない地域に住んでいる人たちにとって、売薬は医者以上に頼もしいものなのだ。鷹島は業界の人間なのにその事実を軽く見ていた。いや、毎日商売として扱っているからこそ、その社会的意義を忘れてしまうのかも知れない。
「食事はいいわよね? お蒲団、一組で…あらあら、お子さんもご一緒だったんですか。さあさあどうぞ、大変でしたわねえ。寒かったでしょう? ほっぺ真っ赤にして、可愛いお嬢さん。え? あらおぼっちゃんなんですか。お利口そうなきれいなお顔ですこと。お母さん似かしら。お部屋は奥の左…あ鷹島さんお願いね、今お蒲団支度しますから」
入ってきた直美と卓也を如才なくお世辞を言って迎えると、ばたばたと奥の蒲団部屋に消えた。
こたつをどかしても、三組の蒲団は端を重ねないと敷けないほどの狭い部屋である。それでも卓也を蒲団に寝かせてから、小さなちゃぶ台を三人で囲むと、ほっとした安らぎが感じられた。
「申し遅れまして、安岡と申します。これは家内の直美です。今日は大変ご迷惑をお掛けしてしまって、お蔭様で親子ともども助かりました。ありがとうございました。さっきはもう、どうしようかと途方にくれました。本当にどうも…どうお礼申し上げたらいいのか」
男がジャンパーを脱いで、改まって自己紹介と礼を述べた。どことなく気弱さが感じられるが、好感の持てる物腰であった。隣の直美も一緒に深々と頭を下げていた。涙ぐんでいるのか、小さく鼻を鳴らせている。
「あ、いいんですよ。困ったときはお互い様ですから。まあ、お茶でも飲んで。私は鷹島といいます。タカは鳥の鷹です。ご存じないでしょうが、ユニコーンと言う製薬会社の営業をやってます」
自分の会社名を言う前に、「知らないでしょうが」と言う言葉を無意識に付け加えたところに、鷹島の卑屈さが見られた。
社名を告げる口調に、誇りがまったくなかった。T製薬とかS製薬のような一流製薬会社なら、胸を張って名刺の一枚も出したであろう。業界の中ですら知らぬ者もいる小さな製薬会社の、それも何も肩書きのない名刺を出すのが気恥ずかしいのだ。こんな卑屈さは、昔は持っていなかった。
大学時代はぱっとしなかった男たちが、研究所や一流製薬会社の主任研究員や課長になっている。しかしそれを羨んだことはなかった。むしろ硬直した組織の中できゅうきゅうとして働いている彼らを哀れんでいたほどであった。中小企業ならば自分の力を最大限試すことができると、自ら選んだ道に間違いはなかったと信じていた。
しかし、知名度の低い会社に対する世間のいわれなき蔑視と有形無形の差別が、鷹島に劣等意識を徐々に植え付け、誇りと自信を失わせたのだ。
「ご家族でご旅行ですか?」
話題を自分のことから相手のことに変えた。
「ええ。一度家族で旅行したいと思っておりましたところ…ま、幸か不幸か、仕事が一段落つきまして。今まで仕事にかまけて新婚旅行も満足にしなかったものですから」
「お仕事はどんな?」
安岡は先月まで埼玉県のS市で不動産業を営んでいた。S市は東京のベッドタウンとして、急速に発展した新興都市である。土地そのものの社会的評価は低いが、交通の便がよいことから、低所得者層の勤め人には人気がある。
一時は従業員も二十人以上使っていたこともあったと言うから、町の不動産屋としては大きい方であろう。常に百万以上入った財布を胸に、毎晩のように得意先や社員を連れて豪遊していたと言う。しかし、不況のあおりで店を畳まざるを得なくなった。
この二年間、不動産業は史上最大と言われる大不況にもがき苦しんでいる。目先のきく者は巧く切り抜けたが、安岡は人が善過ぎた。多少危険を感じながらも好況時に受けた恩義から、大手が抱え込み過ぎた物件や傷ありの物件を、銀行の口利きで肩代わりしてしまった。仲に入った銀行もすんなり融資をしてくれた。当然一気に借入金が膨れ上がった。それでも物件が多少なりとも動いている間は何とかなった。しかし今年に入ってから成約した物件は二件だけ、それも寝ていた間の金利を含めると仕入の半額にしかならなかった。
今になって思えば、銀行は得意先の大手不動産会社の危機を知っていたと思われる。いや承知していたからこそ、融資に積極的であったのだ。それも条件の悪い系列下のノンバンクを使って。
大手の不動産会社の倒産は社会的に大きな問題となり、ほかへの影響も大きい。銀行としても大きな汚点となるから、救済協力に必死になる。その救済方法の一つとして、焦げつき部分を安岡のような中小企業に回すのだ。中小企業に分散すれば、個々は小さくなるから表面上目立たなくなる。さらに、銀行本体に傷が付かないように、系列のノンバンクを使わせるのが常套手段だ。回し先が、安岡のところのように、多少なりとも自己資産があれば申し分ない。いざとなれば現物を抑えられるし、評価価額にちょっとした手を加えれば、担当者にも傷を付けずに済むからだ。
安岡もそうした事情をまったく知らないわけではなかったが、相場の半額以下で物件が手に入ると言う目先の欲が、危機本能を鈍らし、実力以上に抱え込むことになった。
いつも頭を下げてきた相手である銀行や大手不動産会社に逆に頭を下げさせ、いい気になっていたのも事実だ。市況が急速に冷え込み、不動産が文字どおりまったく動かなくなってから後悔したが、もう打つ手はなかった。話を持ち込んできた銀行の担当者も支店長も栄転して話にならなかった。まして同業者は人の心配を聞く余裕もない。結局十年の夢は一夜にして消え、会社を畳むしかなかった。
安岡の過去の栄光の日々の自慢と、現在の不遇に対する愚痴を聞きながら、鷹島は中小企業に身を投じてしまった自分を悔やんでいた。鶏口と牛後の訓戒は、現代社会では通用しない青っぽいロマンでしかないと悟った。
「あなた、たっくんが…熱、だいぶ高いみたい」
安岡が話している間卓也の額を撫でていた直美が、心配そうな顔を夫に向けた。卓也の頬の赤みが強い。半ば開けた唇も乾いていた。呼吸も早い。
「何か薬持ってこなかったのか?」
ちらっと鷹島の顔を見て、きまり悪そうに小声で直美に尋ねた。
「薬なんか持ってくるわけないでしょう!」
なぜか夫をなじるような強い語調であった。
「でも、どうする、この夜中では…」
「帳場に薬があるか訊いてくるわ」
鷹島がこのことでは頼りにならないことは車の中で知っている。直美はすぐ立ち上がって部屋を出て行った。その後ろ姿に、子を守る母親の強さが表れていた。
安岡は卓也の顔を心配そうに見ている。
鷹島は所在なく、タバコを吸うために廊下に出た。どこからか隙間風でも入るのか、四間ほどの長さの廊下にぶら下がっている電球がわずかに揺れている。使い捨てライターをポケットで探っている間に直美が戻ってきた。手ぶらであった。張り詰めた顔をちらっと鷹島に向け、そのまま部屋に入った。
直美を追いかけるように女将が帳場から出てきた。
「普通の大人用ならあるんだけど、だめかしらねえ。あたし子供を持ったことないでしょ、それにお子様連れの方は滅多にないし。岸本先生に来てもらおうかしら、ちょっと遠いけど…鷹島さん何かいいお薬持ってないの?」
「あるにはあるんですが…」
「なあんだ、だったら早くそう言ってくれればいいのに、鷹島さんらしくもない」
「お医者さんは遠いんですか?」
「そんなに悪そうなの?」
「いえ、そうでもないと思うんですが…万一…」
「車なら十分ぐらいかしら。内科の先生なんですけどね。岸本先生、かなりお歳だしねえ。この夜中に…とにかく奥さんに訊いてみましょうよ」
客商売だけに、本音としては医者を呼ぶのはためらわれるのだろう。
「女将さん、洗面器とタオル、それとあれば体温計貸してもらえませんか?」
「あ、気が付かなくてごめんなさい、すぐ持って行くわ」
帳場に向かう女将と別れて、鷹島は部屋の襖を開けた。部屋の中では、二人がかりでぐったりした卓也の下着を取り替えていた。シャツの袖を通させている直美の目頭には、涙がにじんでいるように見えた。
新しい下着に取り替えてもらって少し気分が良くなったのか、再び横になった卓也は、くりっとした目で下から二親を見ている。頬は相変わらず紅潮している。
廊下で聞いた医者のことを鷹島が安岡に説明しているところに、女将が水を入れた洗面器を携えて入ってきた。
「ご心配ですわねえ。お医者様もお呼びできますけど…もう夜も遅いし…どうです、鷹島さんからお薬分けて頂いて、ちょっと様子を見てからにしては?」
濡れタオルを卓也の額に宛てていた直美は、鷹島の方を不思議そうな目を向けた。直美には鷹島の真意が掴めなかった。製薬会社の社員でありながら、車の中では薬を分けることにかたくなな態度であったのを知っている。しばしの沈黙に耐え切れずに、鷹島が口を開いた。
「……正直なところをお話しします。その上でどうなさるか決めてください」
女将と直美、そして安岡の三人の視線が鷹島に注がれる。
鷹島は直美の方へきっちり座り直してから話し始めた。
ユニコーン製薬の製品は薬効においてはなはだ疑問があり、それで会社を辞める気にさえなったこと。つい最近も小児用の風邪薬で、山本ファーマシーでクレームを聞かされたこと。自分としてはそんな薬を卓也に飲ませたくない。それで車の中で乞われても即答できなかったことなどを、洗い浚いぶちまけた。
話し終えた鷹島は、胸の支えがすっかり取れたものの、軽い疲労を覚えた。
「副作用でもあるんですか?」
長い睫の直美にまっすぐ見つめられて、訳もなく鷹島は頬を染めた。
「いえ、それはないと思います。副作用があるぐらいなら、まだ効き目も期待できるんでしょうが…」
「でしたら…」
女の勘で、女将が医者を呼ぶのを迷惑がっていることは分かるが、我が子のことだから重病であれば何とでしても頼み込む。しかし今のところは風邪の発熱だけのようだ。鷹島はそう言うが、まったく効かない薬はないだろう。副作用の心配がないならば試してみたい。判断を幼子に託した。
「ね、たっくん。おじさんのお薬いただく?」
卓也は枕元でのやり取りを聞いていたのか、母親の問にこっくりうなずいて応えた。
「ぜひお願いします」
安岡も深々と頭を下げる。夜中であろうと医師に往診に来てもらいたいのは山々だが、健康保険証も持たぬ身では、診察代が払えるかどうか心配であった。旅の終わりで、懐にはそう金が残っていないのだ。明日はJAFへの支払いもしなければならない。
「鷹島さん、ご両親もそうおっしゃっているんだし。あたしからもお願いするわ」
「分かりました。取ってきますから、ちょっと待っててください」
女将に急かされて、鷹島は車に向かった。
外はまだ雪が降り続いていた。
車の室内灯の明りの中でカプセル錠を取り出している間も、こんなことでこじらせることにならないかと、鷹島は心配であった。むしろ副作用の心配でもあれば、きっぱりと断れたのにと思う。
直美は卓也を抱えて薬を飲ませた。
この正月で五才になるのだと言うが、標準より体が小さいので、通常は三錠のところを二錠だけにした。熱は四十度には至っていない。熱による脳への心配はまずないでしょうと、鷹島は直美を安心させた。
「明日のご予定は?」
「えっ、あ、別に…」
女将に尋ねられて、安岡が直美の顔をうかがうように応えた。
「ぼくは九時前に出ればいいですから」
明日は山本ファーマシーに立ち寄って会社に戻るだけなので、鷹島もゆっくりしていられる。
「ではご朝食はゆっくりでいいですわね。お風呂はまだ入れますので、よろしかったらどうぞ。おだいじに、お休みなさい」
三人のだれに言うでもなくそう挨拶して、女将が出て行った。
鷹島は別段風呂に入りたくはなかったが、直美の前で服を着替えるのがためらわれ、別棟にある風呂場に行った。
さっと体を暖めたらすぐ出るつもりでいたが、湯舟に浸かると、安岡親子と遭遇してからの緊張がほぐれ、疲れがどっと出た。
鷹島が、脱衣所にある自販機の缶ビールを飲み干してから部屋に戻ったときには、安岡は蒲団に入っていた。直美だけが服を着たまま卓也の枕元にぽつねんと座っていた。寝ずに看病するつもりであろう。卓也は真ん中の蒲団で、見るからに熱っぽい吐息を乾いた唇から吐き出しながらも、静かに眠っている。
直美にちょっと会釈をして鷹島は端の寝床に潜り込んだ。ひんやりした敷布が、風呂で火照った体にはむしろ快かった。そしてやがて眠りの世界に吸い込まれるように落ちていった。