エレベーターが猛烈なスピードで上昇していく。停止ボタンをやっきになって押しても止まらない。最上階を突破しても突き進んでいく。鷹島の乗っているエレベータの箱がコンクリートの天井にぶつかった。
 その衝撃で首が曲ってしまったところで、鷹島は目が覚めた。
 壁に頭が突き当たり、寝違えたのか首筋が痛い。ゆっくり首を回すと、ガラス戸の内側にはめ込まれている障子が明るい。陽を背中から受けて女が枕元に座っている。一瞬ぎくりとしたが、すぐ昨夜のことを思い出した。
「どうです?」
 朝の挨拶も忘れて、卓也の容体を直美に尋ねた。安岡の蒲団は隅に片付けられて本人はいない。
「ええ…」
 生返事からして芳しくないのだろう。あのカプセル錠は期待できないことを伝えたのだから、責任を問われることはないにしても、卓也のために一縷の望みを託していただけに気落ちする。ユニコーン製薬と甘い自分に、心の中で舌打ちをして蒲団から抜け出た。
 洗面所で歯を磨いている後ろを、朝食を運ぶ女将が挨拶しながら通り過ぎた。
「あ、お連れの方、車の修理の人とお出かけになって。食事はいいとおっしゃってたけど、お持ちしておきましょうね?」
 部屋の前で思い出したように、鷹島に声を掛けた。闊達な女将の声が、なぜか鷹島には底意地悪く聞こえた。歯ブラシを口に突っ込んだままそれにうなずいて応えた。
 八時だった。予定より早くJAFが来てくれたらしい。
 部屋に戻るとまだ女将がいた。卓也の蒲団は端に寄せられ、卵と海苔それに味噌汁だけの簡単な食事がちゃぶ台の上に並べられている。
「顔色、だいぶ良くなったみたい。ねえ鷹島さん?」
 直美に対する気休めとはいえ、無責任なお世辞に鷹島は返す言葉がなかった。寝違えた首筋をさすりながら、無言で食膳に向かった。さっさと食事を済ませたら、安岡が戻らなくても先に出てしまおうと思った。
 どうせすぐ辞表を出すのだから、このまままっすぐ社に戻ってもいい。山本ファーマシーのほかにもごたついている件がいくつかある。昨夜まではそれらを整理してからと思っていた。しかし取り繕った女将の言葉を聞いて、放っておいても会社にとってはさしたることはない、後任が少しばかり苦労するだけだと、自暴自棄の気分になっていた。
「お熱は?」
「ええ…」
 相変わらず煮え切らない直美の返事であった。直美も半分諦めているのだろう。女将に促されて、額の濡れタオルを取り替えてから卓也に体温計を口に咥えさせた。鷹島は黙々と箸を運んだ。白飯が澱粉糊の塊となって喉を通っていく。
 卓也の口から取り出した体温計を直美が見ている。徹夜で付き添った疲れが目の縁に表れている。隣で覗き込むようにしている女将に、無表情に体温計を渡した。
「あら!お熱、もうだいぶよろしくなって」
 鷹島と直美は同時に女将を見た。そして互いの顔を見合わした。そんなはずはない、また女将のいい加減な気休めに決まっている。そんな気持を含んだ、複雑な面持ちであった。
「ねっ?」
 手渡されて渋々鷹島は体温計のデジタル数字を読んだ。
 三十六度八分。
「ん?」
 間違いではないかと見直してみたが間違いではない。同じこの体温計で、昨夜は確かに四十度近かったのだ。平熱までには至っていないが、快方に向かっている数字である。
「下がってますね」
 鷹島は直美に体温計を差し出した。
「…あらっ」
 さっきは朦朧としていたのか、見てはいてもしっかり読まなかったのだろう。改めて見直すと、確かに下がっている。
「お薬が効いたんでしょうか?」
 率直に疑問を鷹島にぶつけてから、製薬会社の社員に失礼なことを聞いてしまったことに気がついて、卓也の額に手を宛てながらあわてて後を次いだ。
「あ、いえ、そうに決まってますわよねえ。私何言ってるんでしょう」
「いえ、奥さんの看病のお陰ですよ…」
 うちの薬が効くわけはないんですからと付け加えたかった。事実、鷹島はそう確信していた。それでなければ、山本ファーマシーの息子や、自分自身の体験、問屋や小売店でのユニコーン製品に対する風評が説明できない。しかし、直美に掌を載せてもらって再び目を閉じた卓也の満足そうな寝顔を見て、ここで言うことではないと思い直した。
「良かったですわねえ。この案配ならお医者様お呼びしなくてもよろしいですわね?」
「はい、お蔭様で。ご心配お掛けしまして」
「ぼくちゃんに軟らかいご飯でも用意しましょうね」
 医者を呼ばずに済んで機嫌がいいのか、そう言うと直美の返事もろくに聞かずに、さっさと出ていってしまった。
 鷹島が食事を済ませ、勘定を払いに部屋を出たのと入れ違いに安岡が部屋に戻ってきた。
「あなた、たっくん、熱下がったの。見て。…ね?」
夫の顔を見るなり、念のためもう一度検温していた体温計を差し出した。
「ん? ああ、顔色もよくなったな。どれ」
 体温計のデジタル数字では実感が湧かない。自分の掌で確かめようと、卓也の額に手を置いた。横にはなったものの、安岡も昨夜は一睡もしていない。目の周りに隈が出ている。
「ぼく、治ったの。もう起きていいでしょ? 早くおうちに帰ろう?」
 安岡の手が自分に触れると同時に卓也が話し掛けた。
「ママはまだだめって言うの。もう平気なのに。パパいいでしょ?」
 思えばこの一週間の旅の間、両親の顔色ばかり気にして、ほとんど話しをしなかった卓也であった。それがきらきらと目を輝かせてねだっている。
「いいよ。でもちゃんとあったたかくしてな」
「うん」
 卓也と夫が話している様子を見ている直美の目が潤む。安岡の目にも熱いものが込み上げてくる。それを苦笑いでどうにか隠す。
「子供は正直さ。子はかすがい、卓也は…おれたちの宝…」
 そこまで言うと、言葉が続かず、耐え切れなくなって安岡は部屋を出た。
 廊下で鷹島が戻ってくるところにぶつかった。
「お蔭様で、卓也も元気になりまして…どうお礼をしていいものか」
「いえ、とんでもない。あんな薬は…ご看病の賜物ですから」
「お薬の代金は? あ、そうだ、宿泊代も。すっかり甘えてしまって、ご迷惑だったでしょう。お幾らなんでしょう?」
「ああ、いいんですよ。私が済ませましたから」
「いや、それは困ります。助けて頂いただけでもなんなのに」
「ええ、ほんとにいいんです。女将もいいって受け取らないんで、食事代だけやっと置いてきたくらいなんですから」
「そうですか…申し訳ありません。ではお言葉に甘えさせて頂きます」
「ちょっとお話ししたいことが…お時間、よろしいですか? ここを使わせてもらいましょう」
 安岡が玄関脇の長椅子に鷹島を誘った。ほかの客は皆とうに出立して静かだった。調理場から女将が卓也の粥を運ぶのが見えた。
 私が馬鹿なものですから、事業に失敗したことは昨夜お話ししましたが…と、安岡は話し始めた。

 再建のためなんとか倒産ではなく、和議の形を取ろうと銀行に泣き付いたが、鼻から相手にされなかった。
土地家屋の売却はもちろん、安岡と直美の生命保険も取り崩したが、どうしても残ってしまった二千万の債務を消すことができなかった。
まともには回収できないと見た金融業者は、暴力団系の取立屋を使いだし、直美にも身辺の危険を感じるようになってきた。このままでは直美が苦界に身を落とさねばならなくなる。その後は三人の地獄が待っているのが目に見えていた。
 それでも卓也が生まれてから積立てていた卓也名義の二十万円の預金だけは最後まで手放さなかった。その通帳を持って、三人は庇いあうようにして木枯しの吹く夜、翌日引き渡すことになっていた車で出た。行く当てはない。一時身を隠す親戚や友人がないわけではない。しかし広域暴力団の情報網と組織力は、必ずすぐ見つけ出す。そして身を寄せた人に多大な迷惑を掛けることになる。安岡は今までの商売上、それがどんなにひどいものであるかをよく知っている。それだけに人に頼ることはできなかった。
 家を逃げ出す前から安岡は生きることに絶望していた。何度も直美に別れてくれと頼んだが、最後まで一緒にいたいと言って離れなかった。別れれば、安岡は精神的脆さがあるだけに、自らの命を絶つことが容易に察しがつく。それを承知で離れることは直美にはできなかった。
 ずるずる当てのない車での旅を続けながら、夫婦で語りあったが悲観的なことばかりで、前向きの話しにはならなかった。鷹島に会った昨夜、親子心中に直美も賛同するに至ってしまった。冬の日本海の厳しい風情が、関東育ちの二人を打ちのめしたのかも知れない。あの時車が脱輪しなかったならば、厳冬の海に車もろとも一家三人は飛んでいたに違いなかった。

 思わぬ事故と、鷹島の助けで死に時を失ってしまった。卓也の風邪がひどくなったのも、今思えば神の助けであったような気がする。死を覚悟していた者が風邪ぐらいでおたおたするのも妙な話しだが、子供に病気になられて、生きることの大切さを改めて知ることになった。
 どうにかして卓也に元気になってもらいたいと、安岡も直美も切実に願った。
 愛しい卓也を道連れにと考えてしまった愚かさ、親の身勝手さに寒気を覚えた。これからはどんなことがあろうと、草を食っても生き抜こうと、卓也の枕元で夫婦は誓いあった。
「今だからこんなお話もできますが、鷹島さんに拾われなかったらと思うとぞっとします。神様のお引き合わせでしょう。医者代もままならぬ状態で途方に暮れたところ、結構なお薬までお分けいただいて…私ども親子の命の恩人です」
「そんな…」
 死神が離れたのだろう。内容は暗澹たるものだったが、淡々と語り終えた安岡の顔が明るいのが救いだった。
 もう一度土地勘のある埼玉のS市に戻り、夫婦して廃品回収業でも皿洗いでもやって出直してみると言う。
「大変だと思いますが、卓也君のためにも頑張ってください。どんな生活でもお父さん、お母さんと一緒に暮らせるのが、卓也君にとっては一番の幸せなんですから」
 月並の励ましの言葉ではあったが、鷹島は心底そう願った。自己破産まで落ちた人間が再び這い上がるのは並大抵ではない。しかし一度死を覚悟した者は開き直った強さが出ると言う。もう大丈夫だろう。
 安岡家族を残して鷹島は先に青風荘を出た。
 出掛けに鷹島は、あなた方にお渡しするのではない、卓也君への一足早いクリスマスプレゼントだからと、集金の中から五十万を抜き出して、拒む安岡に押しつけるようにして渡してきた。
 両親の苦境を肌で感じ取っているのだろう、「おじさん、ありがとう」と、卓也が健気にも、涙でものが言えぬ親に代って礼を言っていた。
 縫いぐるみの小熊が、リアミラーの下で揺れている。
「これ、あげる」と、卓也が小さな手で差し出してくれたものだった。お返しのつもりだったのだろう。卓也が大事にしているものとは知っていたが、鷹島は素直に受け取った。
 卓也の頭をかき抱き、体を震わせている直美と、長身の体を小さく丸めて畳に突っ伏してしまった安岡の姿がフロントグラスに浮かぶ。
 少しでも気休めにでもなればと、強壮ドリンク剤のサンプルも何本か渡してきた。あれで本当に元気になってくれればいいがと、今日ほど切実に願ったことはない。
 久しぶりに見せた青空のように、鷹島はすがすがしい思いで軽ライトバンを運転していた。安岡に渡した五十万は退職金で埋め合せるつもりだ。退職するのがこんなに精神衛生的にいいものだとは思わなかった。山本ファーマシーに寄る予定だったが会社にそのまま戻ることにした。折角の気分を山本良江の不機嫌な顔で壊されたくなかった。