再会


 玲子は入学式を心待ちに待っていた。俊が嫌がっても一緒に行くつもりだった。光和高校は女学生時代から憧れの学校なのだ。
 文化祭や運動会のときだけは、外部生徒も構内に入れる。もちろん女子生徒もだ。実際そうして見に行った友人もいたが、玲子は誘われても気恥ずかしくて行けなかった。遠くから光和高校生の制服姿を見て心ときめかすだけで十分だった。特定の子がいたわけではなく、ただその制服が玲子は好きだった。
 今はその光和高校生になる息子の母だ。だれはばかることなく、男子生徒ばかりの学園の中に入れる。二十年も前の女子高生に戻ったように、華やいだ気持ちで鏡を覗いた。
「お母さん」
 朝のメークに余念のない玲子の背中に、俊が声を掛けた。
「んー?なあに?もうすぐだから待って」
 鏡の中で目を細め、マスカラを使いながら愛する息子に答えた。着替えはとっくに終わっている。この日に備えてあつらえたシックなスーツだ。
「どうしても行くの?いいよ、来なくても。一人で大丈夫だから」
 俊は母親と一緒に入学式に出たくなかった。
 思春期の少年の見栄もあったが、自分の母親を、これからの友人に見せたくなかったのだ。
 玲子は並みの男より長身で目立つ。それだけではない。三十も半ばを過ぎたのに少しも崩れぬプロポーションと美貌は、学友だけではなく、教師たちの目も引きつけずにはおかないだろう。
 きれいな母親を誇らしいと思う以上に、母親は自分だけのものとして、できるだけ外には出したくなかった。大事にしまっておきたかった。義父の良介にですら、心から許せたのはつい最近なのだ。母が自分への愛を赤裸々に示してくれてからのことだ。
 昨夜は義姉の幸子(さちこ)まで、会社を休んで一緒に行きたいと言っていた。それはどうにか断った。そのとき「お母さんだけなら」と、妥協してしまったことを悔やんだ。
「何言っているの。一生に一度のことよ。お母さんはこの日をどんなに待っていたことか」
 ストールの上で向き直って、昨夜と同じことを言った。母には光和高校の制服姿の息子が、初陣前の若武者のように思われた。
 幼いころ病弱だったのに、よくここまで育ってくれたものと思う。母一人、子一人の生活が長かった。しかし背丈と同様、心根も真っ直ぐに育ってくれた。亡父もきっとあの世でこの姿を見ているに違いない。そう思うと目頭が熱くなる。
 うっすら涙を浮かべた目で言われては、俊もそれ以上反抗できなかった。
 結局、タクシーで行くならと、俊は折れた。



 一緒に歩く姿を、できるだけ人に見られないようにと、家の近くでタクシーを拾った。
 正門近くでタクシーから降り立つと、初々しい高校生が次々と校庭に吸い込まれている。父母の姿もかなり多い。やはり息子が名門高校に合格したのがうれしいのだろう。
「ほらごらんなさい。みんなお母様方もいらっしゃってるじゃない。さ、早く」
 手を引こうとする母親の手を辛うじて逃れて、俊はその後に従って歩いた。
 それが自分の母親であることを忘れさせるほどの、魅力的な後ろ姿だった。熟しながらも張りのあるふくらはぎを包むストッキングは、美しい肌をさらに際立たせている。タイトなスカートに包まれたお尻が、ぷりぷりと揺れ弾んでいる。俊にはその中も手に取るように想像できる。
 ほかの人がどう見ているのか気になって、周りを見回した。が、心配することはなかった。それぞれの喜びで一杯なのか、玲子に好奇な目を向けるものはいなかった。

 講堂での退屈な式次第も終わりに近づいた。
「では最後に、先輩から激励のお言葉を頂きましょう。今春、国立美術大学に進学した、よしむらこういち君です。どうぞ」
 司会者の言葉で、舞台の脇から青年が出てきた。自由な校風の学園のOBらしく、ラフなセーター姿だった。
 よしむらこういち・・・どこかで聞いたような、と玲子は思った。
 目を細めて青年の顔を見た玲子は、心臓が一瞬止まったかと思われた。
 二階の保護者の席からは、はっきりとは見えないが、間違いない。名前も確かに吉村晃一と聞こえた。
(あの子だ! アトリエの…)
 通っていたアトリエの老講師に頼まれ、まだ光和高校の三年生だった彼のモデルになったことがある。それもいきなり一糸も着けないヌードモデルに。
 それだけではない。貞淑な体に、若い精をあふれるほど注ぎ込まれたのだ。忘れようもない、また人には言えない思い出だった。
 晃一が二百人の後輩にマイクで何かを語っている。しかし玲子にはほとんど耳に入らない。どくんどくんと、妖しい血が体中に流れる音だけが聞こえる。深く腰掛けているお尻に、あのときの昂ぶりが蘇ってくる。
 スカートの端を前に引いて座り直し、両脚をぎゅっと付けた。そうすることで、体の奥からぬわっと出てきそうな魔物を封じ込めた。



 式が終わって、俊が先に帰っていいと言うのを、玲子は校庭でオリエンテーションが終わるのを待っていた。
 初夏を思わせるほどの暖かさだ。
 内側に軽くウェーブが掛かったセミロングの髪が、春風にそよぐ。門の脇の大きな桜がはらはらと、しきりに花びらを落としている。
 秋が新学期の国が多いが、やはり入学式は春が似合うと玲子は思う。春はなんとなく心が弾む。とくにさっき晃一を再び見た玲子の心には、きらきらとした細波が立っていた。
 明るいグレーのスーツの上着を脱ぎ、丁寧に畳んでベンチに置いた。真珠の輝きのあるシルクブラウスは、体の線を露骨には顕わしていない。が、豊かな胸はその存在を誇らしげに叫んでいる。
「さかき…榊原さん、ですよね?」
「えっ?」
 玲子は軽く驚きの声を上げた。名を呼ばれて、後ろを振り向くとそこに晃一が立っていた。
 去年のアトリエでの出来事を反芻し、秘めやかな感傷に浸っていた。その相手の当の本人がそこに立っていた。髪形だけが当時と変わっていた。肩まで伸びた髪を、女の子のポニーテールのように、一つに束ねていた。
「やはり榊原さんだった。どうしてここに?」
「あ、しばらく。元気そうね」
「ええ、まあ。きょうは入学式にOB代表として引っ張り出されてしまって。榊原さんはどうしてここに?」
 晃一は重ねて尋ねた。
「私も入学式に」
「?」
「息子の」
 玲子は半分誇らしげに、半分恥じらいながら付け加えた。
「息子さん?」
「ええ。俊というの。ここが第一志望だったの。運良く推薦入学試験で入れて」
「そんな大きなお子さんが!」
 落ち着いた様子から、結婚はしているだろうとは晃一も薄々感じていた。しかし子供がいるとは想像していなかった。それも高校生の子持ちだっとは驚きだった。
「私をいくつだと思ってて?」
 甘えたような、媚びを売るような声になっているのに気づき、玲子は自分に舌打ちをした。晃一の驚いた様子に、想像以上に若く見られていたのだと思い、その浅はかな喜びで声を軽くしてしまった。
「座りません?」
 そう言いながら上着を置いたベンチに腰掛けた。
 礼儀正しくハイと答えた晃一が座ると、ふーっと若い男の匂いが玲子を包んだ。
 晃一にしても、アトリエでの経験は忘れ得ぬ思い出であった。
 もう一度あの人に会いたい。あの人の温もりを味わいたい。毎晩のように思っていた。そしてその思いをキャンパスに叩き付けた。それが実技試験のとき功を奏した。
 一度だけ思い余って電話をしたことがある。美大に合格した日だった。会って欲しいと伝えた。受話器を握った手が汗びっしょりだった。
 あのときは私どうかしていたんだわ。ごめんなさい。大人の私がしっかりしていなければいけなかったの。でもいい思い出としてそっとしまってあります。変な女だと思わないでね。若いのだから、これからいくらでも、あなたにふさわしい人と出会えるわ。
 再会を優しく諭すように拒絶された、あのときの電話の声を、一言一句憶えている。
 その人に偶然出会えた。晃一はどう切り出そうかと迷った。スラックスのひざを握った手に目を落とした。すぐ脇に、春の日差しに輝くストッキングのひざがあった。
 最初に玲子に出会ったのは、東海道線の中だった。
 腰掛けた向かい側に、美しい長身の女が座っていた。その女は、なぜか好意的に自分を見つめてくれた。そしてミニスカートから出ている脚、太腿、それだけではない、ずっと奥の方まで見せてくれた。露出狂の女にしては品があり、優しさがあふれていた。艶然と微笑むその顔は神々しくさえあった。
 晃一の視線を感じて、玲子は脇にあった上着を、ひざの上にさり気なく置いた。
 前途有望な青年をかどわかしてはいけない。過ちは一度で十分。玲子は自制した。気詰まりな雰囲気を破らなければと、言葉を捜した。
「どう?大学は面白い?」
 晃一はきょとんとしていた。
「あ、まだ始まっていないわよねえ、大学も。ばかねえ、私って」
 ふふふと笑う玲子に合わせて、晃一も苦笑した。
 自分が思っているほど、相手は自分のことを思っていてはくれなかったのか。一人よがりだったのだ。大人の女だ。若造とのたった一度の関係なんて、とっくに過去のことと片づけてしまっている。晃一の苦笑にそんな思いが含まれていた。
 向こうにしてみれば小さなことだったかも知れないが、自分には重大なことだった。簡単に忘れ去られては惨めすぎる。なんとかあのときの状況に、玲子を引きずり戻したかった。
「榊原さんはどう思っているか分かりませんけど…ぼくはあのときのことが…どうしても忘れられなくて」
 表情のわずかな変化も見逃すまいと、真っ直ぐ見て話した。
 恐れていたことを切り出されて、玲子は息を詰まらせた。
「そ、そう言われても…」
「毎日あなたのことを考えて過ごしてました。もう一度会いたい。会って話がしたい…と」
 もう一度あなたの肌に触れたい。さすがにそうは言えなかった。しかし言わずとも玲子には通じていた。この子は自分と体の関係を持ちたいと思っている。直感的に感じ取っていた。
「晃一君…」
 玲子も晃一の顔を真っ直ぐに見た。かつてあった鼻の頭のにきびは消えていた。
「もう分かったでしょうけど、あなたが考えていたほど私は若くはないの。ここに入学した子もいるの。あなたとお付き合いするには不似合いだわ」
「そんなこと関係ありません。歳なんか。榊原さんは十分若いです。年上の人と付き合っている友人もいっぱいいます」
「ありがとう。そう言ってくれるのはうれしいけど…。でもね、夫も子供もいる女の人が、ほかの男の人と付き合うのはいけないことだと思うの」
「それは、まあ。だけどぼくは、ただ会って…」
 ただ会って話しするだけでは終わらないことを、晃一自身が一番承知している。正直なだけに言葉が続かない。この機会を逃したら、もう二度と会えないと思う。その切羽詰まった気持ちが、思わず玲子の手を握らせた。
 はっとして玲子は握られた手を拳にした。熱い手であった。もう一つの手を晃一の手の甲に重ねた。
「まるでだだっ子ね。悪い子。おばさんなんかからかって。ほかにいくらでも…」
 玲子はそこで言葉を切った。
 校舎からぞろぞろと生徒が出てきた。その中に俊を見つけた。向こうもこっちに気がついたようだ。
「俊が来るわ」
 どちらからともなく手を離し、二人は立ち上がった。
「早かったわね」
 訝しく感じたのか、俊は晃一をじろじろ見ている。
「この人、さっき講堂で挨拶してたOBの人よ。ほら先輩にちゃんと挨拶して。吉村晃一さん。お母さんが通っていたアトリエで一緒だったの。偶然きょう遭ってびっくりしちゃった」
 玲子が後ろめたさに早口で話している間、二人は無言で会釈をしていた。
 互いに警戒し合っていた。一匹のメスを前にした二匹のオスのようであった。
「では、ぼくはこれで失礼します」
 晃一がそう言ってくれて玲子はほっとした。
「そのうちまたお電話しますから、そのときはよろしく」
 俊の前では直接的には拒めないだろうという、計算づくの別れ際の挨拶だった。
「あ、はい」
 不意打ちに頭が混乱した。電話をされても困る。何のために電話をしてくるのか。どんな話になるか。玲子は漠然とした危うさを感じながらも、うなずいてしまっていた。