息子
帰りもタクシーを使った。
しばらくして、入学祝にお願いがあるのだけど、と俊が切り出した。
「お願い? 珍しいわね」
子供のころからおねだりをしない子だった。それが改まって何を望んでいるのか。タクシーの運転手に聞かれては困るようなことを、まさか言うつもりではないかと身構えてしまった。
「変なことじゃない、でしょうね?」
運転手に聞こえないように声をひそめた。
「変なことって?」
「そうでなければいいんだけど…うちに帰ってからではだめなの?」
「ううん、今の方がいいの。ぼく、犬を飼いたいんだ」
「いぬ?またどうして急に」
玲子はふーっと体の力が抜ける思いだった。
家族四人でスキーに出掛けた夜、決して口外できない秘め事を抱えてしまった。二人のほかは、その段取りをした幸子だけが知っていることだった。
感情の中では整理したはずのことだったが、夫の良介にはもちろん、人に知られることを恐れる気持ちに変わりはない。
それに関係することを、俊が言い出すのではないかと心配した自分が恥ずかしかった。
「近所の電信柱に前から張り紙があったんだ。だれか犬を飼ってくれませんかって」
「どんな犬なの? 見た?」
「ん。茶色で鼻だけ黒い雑種。おじいさんとおばあさんが飼っているの。そのおじいさんと犬に、ときどき海岸で会うんだ。でも最近体が悪くなって、散歩にも行けなくなったんだって。だから。まだ一歳にならない小犬だよ。だめ? 面倒はもちろんぼくが全部するから」
「柴犬みたいな犬? 片方の耳だけちょっと折れている」
「そうそれ!お母さんも見たことあるの?」
爺さんが連れて歩いている小犬であれば、玲子もよく知っている。何度か会っている。
「そのおじいさんて、ちっちゃくて皺だらけの…ことこと歩いて…」
「そうそう。なんだ、お母さんも知ってたのか。その犬だよ」
小犬は可愛らしかったが、爺さんにはひどい目に遭っている。
アトリエでモデルとして立つ日のことだった。自転車で転んだときに、胸とお尻をその爺さんに青痣が残るほど掴まれたのだ。初めてのヌードモデル。するならできるだけきれいな体を見せたいと思う女心に、その痣は重大なことだった。
その仕返しに、腰を抜かすような、あられもない姿を見せ付けてやったことを思い出した。
夕闇の中、乳首まで見えるほどに胸を広げ、両ひざの間に小犬を呼び込み、スカートの中を覗かせたのだ。パンティを穿くのを忘れていたから、今にも脳卒中で倒れるのではないかと心配したが、実際病の床についてしまったらしい。玲子は責任を感じた。
幸子も良介も動物が嫌いではない。家の中に入れない約束で、玲子はその小犬を引き取ることに同意した。
「よかったー。じゃ、途中で降りるよ。犬を貰いに行くから」
「貰いに行くって、お礼でも。手ぶらじゃ」
「いいよそんなもの。早くしないとだれかに取られちゃうよ」
「しょうがないわねえ。じゃああとでお母さんが何か買って持って、ご挨拶に行くわ」
「うん。それから…もうひとつ、ついでに」
「まだあるの?」
「でもいいや。それは帰ってからで。あ、運転手さん、そこの角でぼくだけ降ろしてくれませんか?」
よくお礼を言うのよ、と言う玲子の言葉を背にしてタクシーから降りると、俊は走り去ってしまった。
普段着の軽いセーターとプリント地のスカートに着替え、近くのスーパーに買い物に出ようとしたところへ、俊が小犬を連れて帰ってきた。
まだ一歳になっていないが、もう体型はしっかりしている。賢そうな目をしているが、先が折れている左耳が頼りなげだ。フローリングの床に置かれて、不安そうに鼻をひくつかせながら周りを見ている。
「名前は?」
しゃがんで犬の頭を撫でながら、俊に尋ねた。襟元からふくよかな胸が覗く。
「名前はまだないんだ。捨て犬だったのをおじいさんが拾って。すぐだれかに貰ってもらうつもりだったから、名前は付けないことにしたんだってさ。おばあさんがそう言ってた」
「ふーん。なんて名前にしようかしらねえ」
「姉さんたちが帰ったら、みんなで決めよう」
「そうね。みんなびっくりするわよ。可愛いわねえ。買い物に行くついでに、ワンちゃんの家に寄ってお礼をしてくるわ。場所を教えてくれる?」
「ドッグフードも買ってきて。小犬用のだよ」
「一緒に行く?」
「いいや、ぼくは。それより…さっきのもう一つのお願い」
「え?ああ、なんか言ってたわね?なーに?」
犬のお腹をさすりながら、俊を下から見上げて訊いた。
「それはね」
俊は母親の脇にしゃがむと同時に、Vネックの襟元に手を滑り込ませた。
「あっ」
入ってきた手を玲子は反射的に抑えた。しかし一瞬早く、ブラジャーの中の乳房がそっくり握られていた。
「こら、何するの!」
「おっぱい掴んでるの」
「もう、いたずらなんだから」
目では叱っているが、もう高校生になった息子の悪さに玲子は寛大だった。
「で、なんなの?お願いって」
胸を預けたまま尋ねた。
「して欲しいんだ。スキーのときみたいに」
「えっ?!」
いつかそれを言われるのではないかと、玲子は毎日心配していた。いや、心配ではなく、心の奥底の期待であったかも知れない。それに気づかない振りを自分にしていただけだったのかも知れない。
「いいでしょ?」
「だ、だめよ」
「なんでさ。あのときはしてくれたのに」
乳房が痛いほど握られる。
「あれは…」
顔をしかめながら、言い訳を探した。
あのときは久しぶりの旅とスキーで心が浮わついていた。前夜の良介との目くるめくような一夜に、理性がどうにかなってしまっていたとしか思えない。自分がしたことも、されたこともよく憶えている。それなのにそれが信じられないでいる。
冷静に考えれば考えるほど、いかに愛し合っているとはいえ、やはり親子としてはしてはいけないことに思える。それをどう説明してあげればいいのか。玲子は自分自身もしっかり納得できないことを、息子に説明する自信がなかった。
「とにかく、いけないことなの。あのときは、お母さんが間違ってた。今は後悔しているの、あんなことしてしまって。お母さんとのこと人に言える?言えないでしょ?ね?人に話せないようなことは、してはいけないんだわ。こんな悪さも」
襟元から差し込まれた手を外に出しながら、俊を説き伏せ、自分をも説得していた。
「じゃあ、お風呂に一緒に入るのは?ぼくは言えるよ、だれにだって。お母さんとお風呂に入ったって」
「そ、それは…」
確かにそれはそうかも知れない。年頃の娘と、一緒に風呂に入る父親も珍しいことではない。著名人がテレビで公言していたこともある。家族風呂はもちろん、混浴の温泉なら、見ず知らずの男女でも平気で一緒に風呂に入る。
「分かったわ。でも今は…」
「今でなくてもいいよ」
「そう。じゃ、買い物から帰ったら」
小学生ならいざ知らず、高校生にもなった息子と二人っきりで、家の風呂に入るのは気恥ずかしい。今すぐと言われたらどうしようかと思ったが、後でいいと言われほっとした。幸子や良介が帰ってくれば、その約束も反故にできるかも知れない。そんな淡い期待もあった。
読者感想