『 奥の細道 』 を巡る 草 加
矢 立 橋
奥の細道記念碑
百 代 橋
日光街道道標

             草加せんべい
 草加せんべいの祖と云われる「おせんさん」の茶店があった場所に、休憩所「おせん茶屋跡」が整備保存されてその名残を止めている。もとは売れ残りの団子を活用した「堅餅」のような穀粉をゆでてから焼いてつくる菓子の製法は、遣唐使が中国から持ち帰ったものだそうでその歴史は古い。
 草加駅前で手に入れた「草加せんべいマップ」を片手に、同行の家内は早くもどの店に寄ろうかと楽しみにしているようだ。 マップにはせんべい屋の屋号と店の写真が載せられていて、道順に付けられた番号からみると、この界隈には 76軒のおせんべい屋さんがあるのだろう。
 旧日光街道が綾瀬川に突き当たる一隅には「おせん公園」があり、せんべいにみたてた「草加せんべい発祥の地碑」が建ち、その隣には、せんべいを焼くときに使う火箸に見立てた角柱の碑も建てられている。 
おせん茶屋跡
立ち寄ったせんべい屋
 旧街道沿のいかにも老舗と感じさせるお煎餅屋へ立ち寄ったときのこと。
壁に架けられた「一茶」と読める文字の手紙のような古文書が目についた。
内容はその昔、小林一茶が旅の途中この地を訪れて、立ち寄ったこの家の煎餅が旨かったというような意味のことが書かれて、この家の主に宛てた礼状に読めた。が、無論すんなり読み下せた訳でもない。買い求めたせんべいを齧りながら、夫婦二人がかりで一文字ずつ辿りながらのことである。
 店番の婆さんに尋ねると、何代か前の先祖が貰った書簡だと、少々誇らしげな表情を見せた。一茶の年代からはもう200年は過ぎていて、さすがに古くからの老舗の歴史を感じさせる。
 先へ向かった街角の小さなレストランも面白くて、どうやら草加煎餅を自分で焼いて食べさせているようだ。通りすがりにガラス越しの窓から、楽しそうにせんべいを焼く親子連れが見えた。どうと云うほどのことでもないが、観光客には人気があるのかも知れない。
河岸公園の芭蕉文学碑
望楼と芭蕉の旅姿像
草加せんべい発祥の地碑
 綾瀬川沿いに整備された旧日光街道の「札場河岸公園」が旅の雰囲気を盛り上げる。旅姿の芭蕉像や望楼が建てられて、草加松並木が続いている。松原の両端には太鼓橋が設けられて、芭蕉の旅立ちに因んだ「矢立橋」「百代橋」の名が付けられている。ただしこの橋は自動車道を跨ぐ歩道橋で、橋の上から見下ろすと水ではなく自動車の流れを眺めることになり、見慣れない身には少々奇妙な感じがしないでもない。
現在の旧日光街道沿いに続く商店街
せんべいを食べる少女の像
 芭蕉はただ体一つで旅をしようとしたのだが、多くの人からの餞別が痩せて骨ばった肩に重くのしかかり、先ず最初にこれが苦労の種となった、なんて云っている。かといって捨てる訳にも行かず、どうにも致しかたのないことではあり、困惑の様子が目に浮かぶようだ。
 同行した曾良によれば、一日目の泊まりは粕壁(今の春日部)で、東陽寺に「傳芭蕉宿泊の寺」碑が建てられている。境内には「曾良旅日記」の一節が刻まれた石碑も見える。
東陽寺門前に建つ「芭蕉宿泊の寺」碑(左・中)と境内の「曾良旅日記」碑(右)
ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへ共、
耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若し生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、
其の日漸早加と云ふ宿に辿り着きにけり。痩骨の肩にかゝれる物、先ず苦しむ。
只身すがらにと出立ち待るを、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、
あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨てがたくて、路次の煩ひとなれるこそわりなかれ。
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