『 奥の細道 』 を巡る 白 河 の 関
心許なき日かず重なるまゝに、白川の関にかゝりて旅心定まりぬ。「いかで都へ」と便求めしも断也。
中にも此の関は三関の一にして、風騒の人心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。
卯の花の白妙に、茨の花の咲き、そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めし事など、
清輔の筆にもとゞめ置かれしとぞ。          卯の花をかざしに関の晴着かな    曾 良
古関跡の碑
 那須の山々を望む現在の福島県白河市に、五世紀の前半、北方の守りを固めるために「関」が置かれた。
「白河の関」とよばれ、以来、東北への入り口として、長く人々の記憶に留められてきた。芭蕉は、江戸を発っておよそ一ヶ月後、白河へさしかかり、白河の関を探してこの地を巡り歩いた。実は白河の関は、12世紀末には廃止されていた。芭蕉が訪れたときには、それがあった場所すら、定かではなくなっていたので芭蕉は関を見つけることは出来なかった。
後になって、時の白河城主・松平定信は、この場所が白河関に相違ないとして「古関跡」の碑を建立した。
 かろうじて「古関跡」の碑に見覚えはあるのだが、「幌掛の楓」「矢立の松」「従二位の杉」「旗立の桜」「柵列跡」などになると余り覚えてはいない。これまでに白河の関へは、社内旅行などで何度も訪ねたことはある。次の観光地へ移動するバスの小休止だったり、帰りの新幹線へ乗る時間調整だったりで、そんな付録のときではろくすっぽ何も見ていない。その頃ではこんなことが面白いとも思わなかったこともあるが、ついでに立ち寄ったのとはっきり此処を訪ねようとしたのでは、今更ではあるが随分と違うものである。
 「矢立の松」は、源平合戦の折、源義経が戦勝を占うため明神神社の前にあった松に弓矢を射立てた松だという。今は僅かに松の根元らしきものを残すのみだが、得てしてこういう類のものは枯れてしまうと代わりのものが植えられていたりするものが多いが、ここはそうでは無い。「矢立の松も戦時中無事と戦勝を祈願して、その枯片を持ち去り、今は少量の根を残すのみです」根元にこんな説明板が立てられているが、ま、植えられたばかりの松の若木を見せられるよりは、この方が面白い。
白河神社

便りあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと        平兼盛
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関              能印法師
都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散り敷く白河の関          藤原季通

 古色漂う白河神社の神殿の左手に「古歌碑」が建てられている。この碑を楽しみにしていたらしい同行の家内は、いつもするように変体ガナの刻を一字づつ小声で辿り始めた。
脇に立てられた解説板をざっと一瞥の私には、毎度のことながら暇を持て余してしまう。神社の奥へ廻って、枯葉が積もった空湟跡をぼんやり眺めて戻ったときも未だ、家内は碑の前で佇んでいた。
 まぁいいさ、どうせ先を急ぐ旅でもない・・・・・。

 前には気がつかなかったが、近くに「白河関の森公園」があった。遊園地や資料館が建てられて、古代のものと江戸時代の関が復元されていた。
賑やかな子供たちの嬌声が聞えて、静かな佇まいを残す白河関跡とは、随分と対照的である。


古歌碑(写真左)
「おくの細道」解説板の前で 枯葉が積もる空湟跡
芭蕉と曾良の旅姿(白河関の森公園) 再現された江戸時代の関
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