『 奥の細道 』 を巡る 安積山・信夫の里
等窮が宅を出でて五里計、桧皮の宿を離れて、あさか山あり。路より近し。此のあたり沼多し。かつみ刈る比もやゝ近うなれば
「いづれの草を花かつみとは云ふぞ」と、人々に尋ね侍れども、更に知る人なし。
沼を尋ね人にとひ「かつみかつみ」と尋ねありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福嶋に宿る。
あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、忍ぶのさとに行く。遥か山陰の小里に、石半ば土に埋れてあり。里の童部の来りて教へける
「昔は此の山の上に侍りしを、往来の人の麦草をあらして此の石を試み待るをにくみて、此の谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」

と云ふ。さもあるべき事にや。      早苗とる手もとや昔しのぶ摺り
見事に咲き誇る三春の滝桜
老木の根元は逞しい
ヒメシャガの花
旧道には僅かに松並木の面影を残すところが・・・

       桜前線は北上まっ盛りである。
「奥の細道」の続きは、桜の見ごろにと思っていたこともあり、ようやく4月の末になって五ヶ月ぶりの再開となった。
この地方の桜の開花は、東京よりおよそ一ヶ月は遅い。
 根尾谷の薄墨桜(岐阜)・山高の神代桜(山梨)と共に日本三大桜と並び称される「三春の滝桜」は、満開をすこし過ぎようかという頃である。こうして毎年見事な花を咲かせ続ける老樹は、樹齢千年とも云われて、地元の人たちの日ごろの管理もさぞや大変なことに違いない。
滝桜見物には任意だが協力金が要る。寄付金は古木の維持管理に使われるという。気の遠くなるほどの時間を、堂々と生き続けた逞しい大木を前にしてみると、駐車代500円・協力金500円なりも、至極当然なことだと納得させられる。
 見事に咲き誇る桜を眺める前方から、『 こんにちは!、コンニチハ!』と、やけに愛想の良い女性二人がこちらへ向って歩いて来た。一行はテレビの旅番組のロケのようで、愛嬌を振りまく「木の実ナナ」とは対照的に「富士真奈美」の方は随分と無口で静かな人のように見えてしまう。こういうものはもっとじっくり撮影するのかと思っていたのだが実際は違っていた。滝桜の前でカメラを廻していたのは、ほんの10分程度である。撮り終えた一行は、長居は無用とばかりにそゝくさと立ち去った。
 ゴ−ルデンウイ−クも終わりの日曜の夜のこと。全くの偶然だが、テレビでこの時の映像をチラリと目にした。次週の番組の予告で、どうやら次の日曜日にこれが放送されるようだ。だが、その日は生憎と、一泊の遠出をする予定になっている。まァあの程度のロケではほんのワンシ−ンだけで、楽しみにするほでもないような気もするのだが・・・・。
 芭蕉は郡山で、ひとつの花をさがしている。昔から多くの和歌に詠み込まれた「花かつみ」である。しかし芭蕉が訪れたときに、辺りに花かつみを知るひとはいない。
しかし、郡山ではヒメシャガを「花かつみ」とよんで、市の花に決めている。花の色には、白と紫があるそうだ。
 浅香山(安積山)をあとにした芭蕉は、二本松の城下を経て、次の歌枕 「黒塚」 を訪ねる。黒塚には、安達ケ原の鬼婆伝説が残されている。
 鬼婆は公家に仕えた「岩手」という乳母だった。ある日、岩手が育てた姫が重い病に倒れてしまう。占い師から妊婦の肝を食べさせるとよいと聞かされた岩手は、ここ安達ケ原で旅の妊婦を襲い殺した。岩手は妊婦が持っていたお守り袋を見て、その女が幼いころ、生き別れになったわが子だと知る。実の娘を手にかけた悲しみのあまり、岩手は鬼と化したという。積み重なった巨大な石は、鬼婆が隠れ住んだという岩屋である。鬼婆は旅人を捕らえては殺し、その肉を食らうようになったと伝えられてきた。

 鬼の棲家だったという岩屋は、黒塚の観世寺の境内にあった。いかにも鬼が住んでいたと思わせる岩屋は、人間の手が組み立てることの不可能な岩であることも、来て見て良くわかる。平坦な辺りと異にして、この一角だけの岩がゴロゴロしている様は、妙に異様な感じにさせる。

      涼しさや聞けば昔は鬼の家    正岡子規

 近くには、鬼婆を退治して埋めた塚「黒塚」があり、そのかたわらに平兼盛の歌碑が建てられている。

      みちのくの安達ケ原の黒塚に
                鬼こもれりと聞くはまことか
黒塚・観世寺
鬼の棲家だったという岩屋
鬼婆を埋めた「黒塚」 白真弓如意輪観音堂 正岡子規の句碑
高村智恵子の生家
安洞院・東北唯一の多宝塔遺構
 観世寺からさほど遠くないところに「智恵子抄」で知られる高村智恵子の生家の造り酒屋が復元されていた。向ってはみたものゝ生憎と定休日で中には入れない。仕方がないので家の前で写真を撮っていると、向かいにある和菓子屋の主が、話を聞かせるからお茶でも飲んでゆけという。どうやらこのオヤジ、日ごろから観光客相手に話を聞かせるのが楽しみであるらしい。
話し慣れた様子で、智恵子のお爺さんが新潟から出てきて、造り酒屋の奉公をした後、暖簾わけにより独立した話から始まった。話上手で、それはそれで良いのだが、どうも誰が如何した類の裏話的なものばかりが多い。
同行の家内はそんな話に興味がなかったのか、或いははす向かい、つまりは資料館の隣の和紙を商う店が気になったのか、ひとりでその店に入って行った。結局、和菓子屋の主の話は、家内がその店を出てくるまで続くことになった。
 話の続きがある。家内が立ち寄った和紙の店の女将さんは、和菓子屋のオヤジがどんな話をしたのか、全てを知っていたようだ。先代が苦労して築いた造り酒屋の身代は、子の代で倒産してしまう。そんな話はイメ−ジが壊れるからと、資料館の人から止めてほしいと頼まれるのだが、このオヤジは一向に止める気配はない。
 帰り道でこの話を聞かされて、今わかれてきたばかりの得々と喋る和菓子屋のオヤジの顔が、再び思いだされて思わず笑えてきた・・・・。
 黒塚の岩屋から3里余り。峠を越えると、福島盆地が広がる。ここは古くから「信夫(しのぶ)の里」とよばれてきた。
芭蕉は、この信夫の里で歌枕として知られた「文知摺石」を訪ねた。石は安洞院という寺にある。
 文知摺石は、布を染めるために使われたと伝えられている。石の表面に布をあて、草の汁で独特の乱れ模様を摺り出したという。
 都の歌人たちは布の模様に「忍ぶ恋」に思い乱れる心の様を重ね合わせて歌を詠んだ。
       『 早苗とる手もとや昔しのぶずり 』
安洞院・文知摺(もぢずり)石
曹洞宗 香澤山 安洞院 芭蕉句碑・早苗とる・・・ 触るとぬくもりがあるという人肌石
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