『 奥の細道 』 を巡る 飯 塚 の 里

 福島県を南北に流れ、太平洋へと注ぐ阿武隈川。この川に沿って北上してきた芭蕉は、いったん奥州街道を離れ、遠回りとなる飯坂へ向った。当時、飯坂一帯は、飯塚の里とよばれていた。
 瑠璃光山・医王寺は、平安時代に飯坂一帯を治めた佐藤一族の菩提寺で、佐藤継信・忠信兄弟の墓がある。佐藤兄弟の悲運は、昨年のNHK大河ドラマ「義経」のなかの記憶にもまだ新しい。
源氏と平家が争った時代。二人は藤原秀平の命を受け、源義経に付き従い、平家との戦いに向う。しかし二人は戦のさなか、義経の盾となり身代わりとなって命を落とす。共に20代という若さだったという。
自分が支えた大将が勝って天下を取った場合はあっぱれと誉められる。だがしかし、二人が仕えたのは、悲劇の主人公である。悲運この上もない。
 医王寺には一本の椿の木がある。この木は、継信・忠信の母親の名をとって「乙和の椿」とよばれている。若くして逝った息子を歎くかのように、この椿の木は花を咲かせずに、つぼみのまま散ってしまうのだという。
 芭蕉は、義経の太刀と、弁慶の笈を題材に句を詠んだ。

       『 笈も太刀も五月に飾れ紙幟 』
医王寺
乙和の椿
医王寺境内(右)と笈も太刀も・・・芭蕉の句碑(左)
鯖湖湯

 医王寺を後にした芭蕉は、飯坂温泉へと向った。
飯坂温泉の歴史は古く、旅の歌人・西行法師も歌に詠んでいる。温泉街にある九つの共同浴場のうち、最も古い「鯖湖湯」の施設案内にはこう記してあった。

 『鯖湖湯は、元禄二年(1689)奥の細道の途中、飯坂に立ち寄った松尾芭蕉が湯につかったと伝えられる名湯です。明治を偲ぶ共同浴場(明治22年)として、松山市道後温泉坊ちゃんの湯(明治27年)の建築より古く、日本最古の木造建築共同浴場で、長い間飯坂温泉のシンボルとして、地元住民や観光客に親しまれてきました。平成5年12月改築・・・・・(略)』

 街なかに建つ木造3階建ての老舗温泉宿に、芭蕉が訪れた当時の佇まいを偲ばせる。どうやら同行の家内は、そんな風情が残された宿の湯に浸かりたいと思っていたようだが、何が幸いするかは分からない。直前に立ち寄った医王寺の門前で、一人の爺さんに尋ねた。『湯に入りたいのだが、何処がお勧めでしょう?』爺さんに教えられたのがこの鯖湖湯である。無論その時は、芭蕉が訪れた湯だなんてことは想像もしない。
 老朽化のために改築したのだが、出来るだけ当時のまゝを復元したという。さほど広くもなく、脱衣場と湯船の間には間仕切りはない。脱衣場が見通せる洗い場には、水道の蛇口も見当たらない。体を洗う湯は、チョロチョロと流れて溜まる上がり湯か湯船から汲んで使う。かけ流しの湯は、他の共同浴場と同様で熱めだというが、我慢できないというほどではない。行き当たりばったりだったが、これが大当たりで、何だか得した気分である。
街なかの老舗温泉宿・昔の佇まいを残している。
月の輪のわたしを越えて、瀬の上と云ふ宿に出づ。「佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半斗に有り、飯塚の里鯖野」と聞きて、尋ね尋ね行くに、
丸山と云ふに尋ねあたる。「是庄司が旧館也。麓に大手の跡」など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、
又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先ず哀れ也。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと、
袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす。   
 笈も太刀も五月にかざれ帋幟    五月朔日の事也。
其の夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入りて宿をかるに、土坐に莚を敷きてあやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所を
うけて臥す。夜に入りて雷鳴り、雨しきりに降りて、臥せる上よりもり、蛋・蚊にせせられて眠らず。持病さへおこりて消え入る斗になん。
短夜の空もやうやう明くれば、又旅立ちぬ。猶夜の余波心すゝまず、馬かりて桑折の驛
出づる。遥かなる行末をかゝえて、
斯る病覚束なしといへど、羈旅邊土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん是天の命なりと、気力聊かとり直し、路縦横に踏んで、
伊達の大木戸をこす。
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