『 奥の細道 』 を巡る 笠 島
鐙摺・白石の城を過ぎ、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと、人にとへば
「是より遥か右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云ひ、道祖神の社・かた見の薄今にあり」と教ゆ。
此の比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、
蓑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、    笠嶋はいづこさ月のぬかり道
義経の腰掛松 白石城址公園 「鐙摺」の遺跡
田村神社
甲冑堂女武者像

 白河の関、そして伊達の大木戸を越えて、松尾芭蕉は、現在の宮城県へと足を踏み入れた。
 そのむかし、この里の村人は山中に潜む山賊に苦しんでいた。東夷を討つためやってきた坂上田村麻呂が賊を討平らげて、田作りや新しい稲作を教えた。田村神社の起源だという。「七人の侍」という映画を思い出した。時代こそ違うが、映画に見たような野武士との格闘シ−ンが繰り広げられたのだろう。
 境内に建つ甲冑堂には、甲冑を身につけた二体の女性像が祀られている。文治3年義経一行は世を忍ぶ山伏姿で奥州に辿り着いた。兄弟2人の死を知った母親の悲しみを慰めようと、二人の嫁が演じた。形見の甲冑を着て「継信・忠信ただ今凱旋致しました。」
・・・・・菩提を弔うためこの地に甲冑堂を建てたのだという。
 飯坂ならいざ知らず、何故この地へ?・・・、と疑問に感じたのだが、社務所の人はこんなことを話してくれた。奥州征伐のために大鳥城におれなくなった佐藤一族は、宮城・山形に隠れ住まざるを得なくなった。義経に従った兄弟は逆臣であれば、おおっぴらに菩提を弔うことも憚れられた。神仏分離以前は神社と同じ地にあったこの寺へ、一族が集まりひっそりと兄弟を偲んだのだという。

 寺もお堂も焼失してしまい、今はもうない。再建された甲冑堂には地元出身の彫刻家・小室達の女武者像が展示されている。彫り上げた像に鎧を着せたものではなく、一本の材木から全体像彫り上げたと聞かされ、改めて立派な彫刻を眺めなおしてしまう。
 社務所の人は親切で、穏やかな語り口が心地良い。次々と繰り出されるむかし話に思わぬ長居をしてしまった。
田村神社でむかし話を聞く 甲冑堂 諏訪神社
かげろふの我が肩に立紙子哉
(左:白石城址公園の句碑)


咲みだす桃の中より初さくら
(右:諏訪神社境内の句碑)
中将実方朝臣の墓

左奥に実方顕彰の歌碑。
右手前に西行法師の歌碑
があり、その奥に実方の
墓標が建てられている。
林の中を墓へ向う(下)
かた見の薄
笠島は・・・・の句碑
道祖神社道標
 

芭蕉は「笠嶋」を、「藤中将実方の塚」や「道祖神の社」「かた見の薄」のある里で、ぜひとも訪ねたい所である。しかしながら、五月雨にぬかる悪路ゆえ、どの辺なのかと見やるだけで通り過ぎねばならぬことが残念だ、というのである。

 この冬は記録的な豪雪だと云われ、梅雨の大雨も酷いものだった。異常気象と云ってしまえばそれまでだが、各地に膨大な水の被害を及ぼした。今回の旅でも直前まで、天気予報は大雨を報じていた。いっそのこと宿をキャンセルしようかと思ったほどだが、思いもしない快晴に恵まれて、何ともラッキ−である。

 中古三十六歌仙の一人、源氏物語の主人公、光源氏のモデルと言われる左近衛中将藤原実方朝臣もついてない。そもそもこの地へ赴任したいきさつは、同僚との喧嘩が原因だという。時の天皇の怒りを買い「歌枕見て参れ」と、陸奥の国へ左遷されてしまった。更に運が悪いことは、足かけ4年が過ぎてそろそろ京へ帰ることが出来ると思われた頃、落馬して死んでしまった。その原因が道祖神の前で、「下品な女神にや、下馬に及ばず」と、馬に乗ったまま通り過ぎようとしたとき、急に馬が暴れて倒れてしまったのだという。それにしても神仏のたたりは恐ろしい。

                 西行法師の歌碑
           朽ちもせぬ其の名ばかりを留めおきて
                   枯野のすすきかたみにぞみる
                  松尾芭蕉の句碑
              笠島はいづこ五月のぬかり道
                   実方顕彰の歌碑
            桜がり雨はふりきぬおなじくは
                  ぬるともはなのかげにかくれむ
白石城下の武家屋敷で 道路脇の展望台に右の句碑があった うぐひすの・・・・の句碑
うぐひすの笠おとしたる椿かな
松尾芭蕉
落椿をみて、鶯が笠を落したのであろうと
興じた句。古歌には梅の花を鶯の笠と詠
んだ例が多い。古歌から捩ったものか。
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