『 奥の細道 』 を巡る 武 隈 の 松
芭蕉は、岩沼という土地で一つの歌枕を訪ねる。旅の歌人・能因法師も和歌を詠んだ武隈の松である。根元から幹が分かれていることから、二木(ふたき)の松ともよばれてきた。
松は今までに何度も、枯れたり、伐られたりしている。その度に地元の人たちは、幹が二つに分かれた松を探して、植え継いできた。現在の松は七代目で、八代目に予定される松も既に公園の中に準備されていた。

     桜より松は二木を三月越シ   (写真左・芭蕉の句碑)
 「陸奥の遅桜よ、師翁が奥州へおいでになったら、ぜひとも武隈の松をお見せしなさいよ」という句を、挙白という者が、江戸で餞別として贈ってくれていたので、それに応えて、桜よりも私を待ってくれていたのは武隈の松で、古歌に詠まれたとおりの二木の姿の武隈の松を、三月越しにみることができたことである。
 また二木の松に並んで建つ「二木の松」碑の解説版には次のように書かれている。この松は、陸奥の歌枕のなかでもその詠歌の多いことでは屈指の名木である。千余年前、陸奥の国司として着任した藤原元良(善)が植え、以後能因・西行をはじめ多くの歌人に詠まれるようになった。(以下略)
二木の松に近い竹駒神社・此処のお稲荷さんは日本三大稲荷のひとつだと宣伝されていた。
途中で立ち寄った和紙工房で 館腰神社
秋保温泉:宿の下を流れる「磊々峡」はなかなかの渓谷美を見せていた。

岩沼に宿る。武隈の松にこそ覚むる心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先ず能因法師思ひ出ず。
往昔むつのかみにて下りし人、此の木を伐りて名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此のたび跡もなし」とは詠みたり。
代々あるは伐り、あるひは植継ぎなどせしと聞くに、今将千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍りし。
「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白と云ふものゝ餞別したりければ        桜より松は二木を三月越シ
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