『 奥の細道 』 を巡る 宮 城 野
名取川を渡って仙臺に入る。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四五日逗留す。ここに畫工加右衛と云ふものあり。
聊か心ある者と聞きて知る人になる。この者、「年比さだかならぬ名どころを考置き侍れば」とて、一日案内す。
宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。    玉田・よこ野・つゝじが岡はあせび咲くころ也。
日影ももらぬ松の林に入りて、爰を木の下と云ふとぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。
薬師堂・天神の御社など拝みて、其の日はくれぬ。猶松嶋・塩がまの所々、畫に書きて送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。
さればこそ風流のしれもの、爰に至りて其の実を顕はす。         あやめ草足に結ばん草鞋の緒
かの畫圖にまかせてたどり行けば、おくの細道の山際に十符の菅有り。今も年々十符の菅菰を調へて国守に献ずと云へり。
亀岡八幡宮   長い階段に最近登り坂の苦手な私は敢え無くパス。

 5月4日(今の暦で6月20日)、端午の節句を前に、芭蕉は仙台に入った。当時、街の東側には、一面ハギが生い茂る原野が広がっていた。古くからハギの名所として和歌に詠まれてきた「宮城野」である。
 芭蕉は、城下を見下ろす高台に建つ亀岡八幡宮に参詣している。かつてその壮麗さを誇った亀岡八幡宮は、空襲で焼けてしまった。今では参道の石段などに、わずかにその面影を留めているにすぎないという。
 芭蕉が訪れた当時、境内からは宮城野周辺の歌枕の地が一望できたと云われている。が、生憎の雨で眺望台からの眺めは適わなかったそうだ。
 見上げる長階段にため息をつきながら登り始めると、上から降りてくる人影が見えた。聞けば、300段を越えるという。途端に頑張りの気力は消え失せてしまった。元気な家内は一人で向ったが、私は下で待つことにした。
 どうやら何も見えなかったようだ。今は木立が茂って、そしてかすかに覗くと、スモッグで遠景は望めない。 
瑞鳳殿:伊達62万石藩祖・伊達正宗(瑞鳳殿) 二代藩主・伊達忠宗(感仙殿) 三代藩主・伊達綱宗(善応殿)の墓所。

      爰を木の下と云ふとぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。
 「木の下」は、〈古今集〉東歌の「みさぶらひみかさと申せ宮城のゝ木の下露は雨にまされり」によって作られた歌枕で、宮城野原の南、薬師堂・国分寺旧跡の付近一帯をいうそうだ。
 日の光もさしこまないほど茂っている松林に入って、ここを木の下というと説明する。昔もこのように露がびっしょり降りたからこそ、「お供の人よ、お傘をさしましょう、申しあげなさい」と、古歌に詠んでいるのだ。
 へえ−エ、私などは木の下などと聞けば、すぐに大きな樹の根元あたりを想像してしまう。むつかしいものだ。
陸奥国分寺跡(薬師堂) あやめ草・・・の句碑 準胝観音堂
あやめ草足に結ばん草鞋の緒

                松尾芭蕉


折から端午の節句なので、家々の軒にはあやめ草がかざしてある。
私は紺の染緒の草鞋を贈ってもらったので、この蝮除けになる紺の
染緒を結んで、旅中の無事を祈るとしよう。
。。。。。。。。。。。。。。。
芭蕉の辻碑 仙台(青葉)城と城址公園に建つ伊達政宗像
一日の旅おもしろや萩の原   正岡子規
next