『 奥の細道 』 を巡る『 奥の細道 』 を巡る 壺 の 碑 (いしぶみ)
多賀城碑:南門跡   壺の碑
碑の上部の「西」ははっきり読み取れる
意味までは知らないが、碑は西向き
に建てられた堂に格納されている。
きれいな石積み階段が復元されている。

 芭蕉が訪れた当時、多賀城の遺跡は、地下に埋もれたままだった。しかし、芭蕉はこの多賀城で「千歳の記念」に出合うことができた。江戸時代の初めに発掘され、これこそみちのくの歌枕とされた「壺の碑(いしぶみ)」である。
 西に仙台平野、東に太平洋を望む多賀城は、大和朝廷と蝦夷が激しい勢力争いを繰り返してきた場所だ。奥州を支配する役所として、朝廷がこの地に置いたのが多賀城政庁だという。
               碑  文
       京を去ること一千五百里
       蝦夷の国の界を去ること一百二十里
       常陸の国の界を去ること四百十二里
       下野の国の界を去ること二百七十四里
       靺鞨の国の界を去ること三千里
 芭蕉は苔を穿ちて文字幽かなり≠ニ書いているが、雨ざらしで、もっともっとひどい状態であったのだろう。今はこうして立派な堂に整備保存されてはいるが、はっきりは読み取れない。やはり千何百年をも経た歴史を感じさせる。
 発掘復元工事が行われて、きれいな石積みが続いている。人民が登ってくると、この上に威風堂々たる館が建てられていた。朱塗りの柱、屋根、白壁・・・・・・。が、今は一面が草茫々。
 他所の遺跡を訪ねた時もそうだったが、知識もない私には想像に余りあるものがある。神話などに見る白く長い着衣に、腰を紐で結んだ姿を重ね合わせてはみても、おいそれとはイメ−ジは沸きはしない。
 そんな私でも、天平時代の碑だと思うとやはり凄いものだ。歴史の重みというか、時間の流れの厚みというか、そんな感じに浸ることができる。
集められた古碑が並べられていた。 別の場所も発掘調査が進んでいる。 古代政庁跡の解説版


       あやめ草足に結ばん草鞋の緒

       「多賀城碑」の傍らに建つ芭蕉句碑で。


       正式には「芭蕉翁礼賛碑」という。
      建立は昭和2年(1927)5月8日で、
      碑面上部に上記の「あやめ草」の
      句と、下部には「おくの細道」から
      「壺の碑」の章段の抜粋が刻まれ
      ている。
 昔から歌に詠まれている名所は、数多く語り伝えられているけれども、それらの多くは、山が崩れたり川の流れが変わったりして道筋が新しくなり、石は埋もれて土中に隠れ、木は老木となって枯れ、植え継がれた若木に変わっているので、時代が移り変わって、今ではその遺跡が確かでないものばかりなのに、この壺の碑に来てみると、これだけは間違いない千年の昔を伝える記念物であって、今目の前に古人の心をはっきりと確かめ見るような気がする。これも旅の利得の一つであり、生き長らえたおかげで得た喜びであると、旅の苦労も忘れて感動し、涙も流れるほどであった。 (おくの細道:久富哲雄著)
壺碑 市川村多賀城に有り。つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿ちて文字幽也。四維国界の数里をしるす。「此の城、神亀
元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。天平宝字六年参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣満修造而、十二月塑日」と有り。
聖武皇帝の御時に当れり。むかしより置けり歌枕おほく語傳ふといへども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋れて土にかくれ、木は老
いて若木にかはれば、時移り代変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。
行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落つるばかり也。
 
next