奥の細道 を巡る 末の松山・塩竃の浦
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造りて末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる
契の末も、終にはかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞く。五月雨の空聊かはれて、夕月夜幽に、
籬が嶋もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ聲々に「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとゞ哀れ也。
其の夜、目盲法師の琵琶をならして奥上るりと云ふものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上げて、
枕ちかうかしましけれど、さすがに邊土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる。
能因法師 西行法師 清原深養父 清原元輔 清少納言

 末の松山は、変わらない恋心の象徴として古くから歌に詠まれてきたという。だが、無粋な私にはいまひとつピンとこない。
 「はねをかわし枝をつらぬる契り」。いわゆる比翼連理の契りで、夫婦または男女が深く愛し合い、いつまでも変わるまいと固く約束すること、とある。多賀城市末松山宝国寺の裏に小山を作ったが、此処には連理の枝を模した相生の松があった。
 へえ-エ、なるほどネ−。多くの歌碑や解説などを眺めて帰宅後のことだが、柄にもない小倉百人一首を押入れからひっぱり出した。
因みに後撰集の選者を勤めた清原元輔は、清少納言の父で清原深養父の孫にあたる。
暇つぶしにこの地の歌枕を詠んだ句を探してみると、成る程随分と多い。訪ねた地を思い出しながら、歌とその訳文を読んでみるのも、けっこう面白くて楽しいものだ。。 
末の松山
末松山・寶国寺
沖の石
野田の玉川に架かるおもわく橋
塩釜:松嶋を結ぶ遊覧船
        末の松山
契きなかた身に袖をしぼりつゝすゑの松山浪越さじとは
清原元輔:後拾遺和歌集
白波の越すかとのみぞ聞こえける末の松山松風の声
能因法師
頼めおきしそのいひ事やあだなりし浪こえぬべき末の松山
西行法師
春なればところどころは緑にて雪の波越す末の松山
西行法師
まつ山と契りし人はつれなくて袖越す浪に残る月影
藤原定家:新古今和歌集
思ひ出でよ末の松山末までも浪越さじとは契らざりけり
藤原定家:拾遺愚集
白波の越ゆらん末の松山は花とはみゆる春の夜の月
橘為仲:新古今和歌集
いかにせん末の松山浪越さばみねの初雪消えもこそすれ
大江匡房:金葉和歌集
人なみに思ひ立ちにしかひあれやわがあらましの末の松山
道興:回国雑記
わが袖は名にたつすゑの松山かそらより浪のこえぬ日はなし
土佐:後撰和歌集
うかりける昔の末の松山は浪越せとやは思ひおきけむ
藤原俊成
春山にすゑの松山浪越さばころしもはなのちるかとやみん
正三位家隆卿
不如帰すゑの松山風吹けば浪越すくれにたちゐなくなり
左京太夫顕輔卿
藤波のこすゑを越えて見ゆるかなこやあつまなるすゑの松山
左近中将公衡卿
霞たつ末の松山ほのぼのと浪にはなるる横雲の空
藤原家隆:新古今若歌集
        沖の石
我袖はしほいに見えぬ沖の石の人こそしらねかはく間ぞなし
二条院讃岐:千載集
沖の石の波の騒ぎにせめられてたえがたき世をなほすごすかな
藤原為家:夫木和歌衆集
おきのゐて身を焼くよりも悲しきは都島べの別れなりけり
小野小町:古今和歌集
       野田の玉川
ふままうきもみぢのにしきちりしきて人もかよはぬおもわくのはし
西行法師:山家集
夕されば汐風こしてみちのくの野田の玉川千鳥なくなり
能因法師:新古今和歌集
             塩がまの浦
みちのくのいづくはあれど塩がまの浦こぐ舟の綱手かなしも
古今集
塩がまにいつか来にけむ朝なぎにつりする舟はここによらなむ
在原業平:続後拾遺和歌集
君まさで煙たえにし塩釜のうらさびしくも見えわたるかな
在原業平
塩釜の浦吹く風に霧はれて八十島かけてすめる月かげ
藤原清輔:千載集
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