奥の細道 を巡る 石  巻
十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞傅へて、人跡稀に雉兎蒭蕘の往きかふ道そこともわかず、
終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出づ。「こがね花咲く」とよみて奉りたる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江に
つどひ、人家地をあらそひて竃の煙立ちつゞけたり。思ひがけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。
斬まどしき小家に一夜をあかして、明くれば又しらぬ道まよひ行く。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、
遥かなる堤を行く。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云ふ所に一宿して、平泉に至る。其の間廿余里ほどゝおぼゆ。
日和山より日和大橋・田代島・網地島の海上を望む
平泉の方角に向って建つ芭蕉・曾良像
松の木の根元に建つ句碑

 芭蕉がこの石巻を訪れたのは、5月10日(今の暦でいうと6月26日)のことである。芭蕉は、松島をあとにして平泉を目指した。しかし途中、道に迷ってしまう。さまよい歩いた末に、やっと辿り着いた町が石巻だった。
 石巻は、江戸時代の初め、仙台藩主・伊達政宗が、北上川の河口に開いた港町であり、芭蕉が訪れた当時には、仙台領内の米を江戸に運ぶ、一大海運基地だったという。
 芭蕉は、石巻を一望できる、日和山へ登っている。私も真っ先に此処を目指した。日和山は、石巻市中心部にある標高56mの公園で、眼下には旧北上川河口や太平洋のパノラマが広がり、左手に男鹿半島、右手に松島や蔵王の山々が望まれる。公園入り口には、頂に鎮座する鹿島御児神社の標柱と、中世に葛西氏の城「石巻城」があったことを示す城跡碑が建っている。
 上の鳥居をくぐって直ぐのところから右手を見ると、幹を斜めにした松の木があり、その根元に芭蕉句碑がある。すっかり風化して、刻ははっきりとは読めないが次の句が刻まれている。
     「 雲折々 人を休める つきみかな 」 
 公園の旧北上川河口側に芭蕉と曾良の像が建っている。師弟の見つめる先には「おくの細道」の旅で、最大の山場を迎える平泉がある。
像が建つ位置から南東の方角に太平洋が広がる。右に日和大橋が見え、その先に田代島と網地島が霞んでいる。左の牡鹿半島の手前には町並みが小さく見える。
 「おくの細道」の本文に「・・・石の巻といふ湊に出づ。『 こがね花咲く』とよみて奉りたる金花山、海上に見わたし、数百の廻船・・・」とはあるが、金華山は牡鹿半島に隠れてここからは見えない。
鹿島御児神社標柱の前で 石巻城址碑 斉藤茂吉歌碑
 整備された公園の一隅に、斉藤茂吉・宮沢賢治・石川啄木・種田山頭火などの歌碑が建てられている。
石巻の市街に「石ノ森章太郎萬画館」の看板が溢れていた。「仮面ライダ−」で一世を風靡した石ノ森章太郎の記念館のようだが、漫画館ではなく萬画館としたところに拘りがあるのだろうか。「心細き長沼にそふて、戸伊摩と云ふ所に一宿して、・・・」。どうやら石ノ森章太郎は、芭蕉が一泊した登米が出身地のようだ。
 
(追記)戸伊摩は現在の登米だが、詳しく知らない侭に登米(とよま)とふりがなをふってしまった。ご丁寧なメ−ルで教えて頂いたので追加する。

 地名の郡名と町名では読み方が異なり、正しくは旧登米(とめ)郡登米(とよま)町だそうだ。旧としたのは、一昨年に市制が施行されたので、現在は登米(とめ)市登米(とよま)町になる。
 ところで肝心の石森章太郎氏のご出身は、旧登米町ではなく旧中田町だということ・・・・・。
東松島市にお住まいのT.Aさん、ご親切に有難うございました。

 次回はいよいよ「みちのく」の最大のクライマックスとも云うべき平泉だが、以前訪ねたときの記憶は、光堂を微かに思い出す程度である。
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