奥の細道 を巡る 平  泉
五月雨の 降り残してや 光堂
 芭蕉は念願だった白河の関を越えて、憧れの松嶋を巡り、いよいよ「おくの細道」最大のクライマックスとも言うべき平泉へ入る。おくの細道のなかで、この平泉は、旅の大きな目的のひとつだった筈だ。芭蕉の目に映ったのは、さびれた寒村と化した平泉の姿である。平安時代末期、平泉を拠点に東北一円を支配していた奥州藤原氏は、全国支配をめざす源頼朝の前に滅び去った。その繁栄はわずか三代、百年を待たず終わりを告げた。

・・・・・・それはそうとして、源義経が忠義な臣下をえりすぐってこの高館の城にたてこもり、功名を競って奮戦したのだが、その功名も一時の夢と消え去り、その跡は今ぼうぼうたる草むらとなってしまっている。「国は破れ亡びても、山河だけは昔に変わらず残っている。城は荒廃しているが、春が訪れた今、草木だけは昔のとおりに青々していることよ」と、杜甫の詩を思い出して口ずさみ、笠を敷いて腰をおろし、いつまでも懐旧の涙を流したことである。            (久富哲雄著:おくの細道より)
夏草や 兵どもが 夢の跡
なだらかな坂を登り中尊寺境内へ入る。 中尊寺本堂
 今年に入って3度目の「みちのく」は、友人のYさんがご一緒して、気心の知れた3人旅は賑やかで楽しくなりそうだ。
これ迄は、行けるところまで行って引き返せば・・・、程度ののんびりとした旅だったが、今回ばかりはそういう訳にもいかない。後の行程を考えれば何とか出羽三山辺りまでは巡っておきたい。
新幹線で一関へ向かい、レンタカ−で峠越えをして日本海側へ抜ける。途中で2泊の温泉を楽しんで、庄内空港でレンタカ−を乗り捨てる。少々強行軍の感じはするが、まァ主だった見どころへはそこそこ立ち寄ることが出来るだろう。
 東京を出発した時には薄日が洩れるほどに回復した天候だが、四国・九州を襲った台風並の低気圧は、列島に沿って北上途上して東北・北海道にも被害をもたらした。生憎の雨だったが、多くの観光客で賑わいを見せている。
 中尊寺金色堂は、仏像はもとより屋根も壁も、すべてがまばゆいばかりの黄金に覆われていたといわれる。同行のYさんが以前訪ねた時は、光堂の大改修の最中で見物できなかったという。私が訪ねたのはその前の筈だが、余りはっきりした記憶がない。ピッカピカの光堂の前では僅かに思い出したが、堂をすっぽり覆った覆堂がどんなだったかさえも余り記憶にない。
毛越寺「夏草や・・・」の句碑
「 五月雨の降り残してや光堂 」 の句碑 芭蕉旅姿像 弁慶堂
毛越寺本堂
英訳「夏草や」の句碑

 中尊寺も毛越寺も雨の中での見物になってしまった。こればかりはどう仕様もない事だが、逆に雨の庭園はしっとりとした佇まいを見せて、これも又綺麗で楽しめる。紅葉には未だ一足早い季節だったが、季節間近を予感させる木々が混じり、萩の花が見ごろを迎えていた。

 境内で珍しいものを見かけた。芭蕉「夏草や」の句を、新渡戸稲造が英訳し、毛筆で揮毫したと書かれているが、句碑にはこうある。

     「 The summer grass 'Tis all that's left
               Of anciennt warror's dream. 」

 漢字・かな・片仮名を使う日本独特の文化の、僅か17文字に凝縮した世界が、一体どこまで伝えられているのだろうか、ふっとそんな疑問もわいてくる。蛇足になるが手許の解説書にはこんな記述がある。
 生い茂る「夏草」は、「三代の栄耀」の象徴であり、やがて枯れ果てる運命を思えば、はかない「兵どもが夢」の象徴としての意味を持っている。「三代の栄耀」のすばらしさを思い、そのはかなさを歎いたのが、「夏草や」の詠嘆である。
毛越寺庭園の木々も少しづつ色づき始めていた。
萩の花が見ごろだった 「夏草や」の句碑 一関駅で見かけた和紙の龍

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。
先ず高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。
秀衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此の城にこもり、功名一時の叢となる。
「国敗れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷きて、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡          卯の花に兼房みゆる白毛かな  曾良
   
兼て耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、
珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢と成るべきを、四面新に囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、
暫時千歳の記念とはなれり。      五月雨を降りのこしてや光堂
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