『 奥の細道 』 を巡る | 尾 花 澤 |
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芭蕉・清風記念館 | 清風邸跡 |
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奥羽山脈の麓の山形県尾花沢市は、江戸時代、貴重な染料だった紅花の集積地として栄えた。憧れだった松嶋・平泉を訪ねた芭蕉は、今の暦で7月3日、過酷な山道を越えて日本海側へ抜けたのだが、さぞや大変なことだっただろう。 尾花沢の鈴木清風は、芭蕉の俳句仲間だった。紅花の取引で財を築き、紅花大尽ともよばれていたそうだ。清風の豪遊振りは、多くの逸話を残し、そのゆかりの品々が鈴木家代々に伝えられているという。芭蕉は、長旅の疲れと清風の歓待に居心地が好かったのか、実に11日間もの長逗留をした。 「 眉掃きを 俤にして 紅粉の花 」 「まゆはき」は、竹の筒の先に白ウサギの毛を植えつけた化粧道具で、白粉をつけた後の眉を払う刷毛のこと。「紅粉の花」は末摘花とも云って、キク科の2年生草本。花も葉もアザミに似ており、夏季紅黄色の頭状花をつけて、花冠を採集して紅を製造するという。眉掃きを連想させるような形状で咲いているよ、の意だそうだ。 |
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芭蕉・清風記念館の中で | 養泉寺境内の句碑の前で |
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尾花沢滞在中の芭蕉は、清風の勧めで近くの養泉寺で7泊している。寺の先は小さな坂で、米どころの刈入れ間近を迎えた田んぼが、美しく広がっている。稲田を渡って吹き寄せる風は、暑苦しい夏の盛りの昼も夜も、さぞや心地よいものだったろう。 芭蕉が訪ねた当時の養泉寺は、上野東叡山輪王寺の直系の寺で、格式の高い寺であったという。宣伝や金儲けが余り得意ではなかったのか、時代の変遷で境内の広さも格式も、当時の俤はない。が、境内の佇まいが古くからの歴史を感じさせる。 本堂の片隅に、芭蕉が残した礼状が掲げてあった。勿論本物ではなく現代風に書き変えてある。 かなり長文の文面には、 鈴木清風さんは富裕なお方だが、金持ちにありがちな心持のいやしい人物ではない。・・・何よりうれしかったのは、涼しい養泉寺に七泊させていただいたことだ。 ・・・土地の人々との交流もでき、歌仙二巻を巻くことができた。須賀川から山刀伐峠を越える迄は、さしたる知人もなかったが、此処での歓待に新たな創作意欲がわいた。 「 涼しさを わが宿にして ねまるなり 」 「ねまらっしゃい」ということは、ゆっくりくつろいでくださいという、尾花沢の人びとのやさしい心に感動いたしました。 ・・・ざっとこんなことが書かれていた。 昭和の中ごろ、養泉寺では井戸替えをしたそうだ。その折、古い井戸の土砂に埋もれた「ツルベ」が発見されたという。材質は分からないが、丸太を刳り貫いて造ったもので、大変珍しいそうだ。 釣瓶を飾った傍らには「芭蕉もこのツルベの水を飲まれたことでしょう」と書かれている。構うことはない「芭蕉がこの寺に滞在中、朝に夕にこのツルベの水を汲んだ」とでも宣伝すれば盛り上がるだろうに、確証が得られないからだろう随分と遠慮している。正直なお寺ではある。 |
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尾花澤にて清風と云ふ者を尋ぬ。かれは富めるものなれども、志いやしからず。 都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知りたれば、日頃とゞめて、長途のいたはりさまざまにもてなし侍る。 涼しさを我が宿にしてねまる也 這出でよかひやが下のひきの声 まゆはきを俤にして紅粉の花 蚕飼する人は古代のすがた哉 曾良 |