奥の細道 を巡る 立 石 寺
山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依りて、
尾花沢よりとって返し、其の間七里ばかり也。日いまだ暮れず。梺の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。
岩に巖を重ねて山とし、松栢年旧り土石老いて苔滑かに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音きこえず。
岸をめぐり岩を這ひて仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。      閑さや岩にしみ入る蝉の聲
せみ塚
立石寺・根本中堂


 松嶋の瑞巌寺、平泉の中尊寺と毛越寺、山形の山寺立石寺を巡拝することを四寺廻廊と言うそうだ。この四寺はいずれも慈覚大師円仁の開基である。今の暦で7月13日、芭蕉は尾花沢の人たちの勧めで、当初の予定にはなかった山寺・立石寺を訪ねる。

       「 閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲 」

この句にゆかりのある場所が山の中腹にある。「せみ塚」である。
芭蕉が亡くなった50年ほど後に、芭蕉に心酔していた山形の俳人が建てたものだ。ここには芭蕉直筆の短冊が埋められているという。
また、私の手許にある参考書にはこんな解説が載っている。
 「蝉」がどんな蝉であるか、単数か複数かなどについて多くの議論があり、昭和の初期には、歌人・精神科医の斉藤茂吉と、夏目漱石門下で芭蕉研究家の小宮豊隆との間で激しい論戦が繰り広げられた。茂吉はジ−ジ−と鳴くアブラゼミであると主張し、小宮はチィ−チィ−と小さく鳴くニイニイゼミであると主張した。山形県出身の茂吉は、山寺のことだけに一歩も譲ることができずアブラゼミで押し通した。
 そのうちに、これらのセミの活動時期を調べ論戦に決着をつけようということになり、実際に山寺に入って調査が行われた。その結果、芭蕉が訪れた7月13日(旧暦5月27日)ごろ鳴きだしているのはニイニイゼミで、山寺界隈ではこのころまだアブラゼミは鳴かないということになり、茂吉が敗れた形で蝉論議は終結した。

除夜の鐘で見覚えがある鐘楼 杖を片手に、イザ!長い階段登りに挑戦
 山寺には今、年間およそ80万人の観光客が訪れるという。江戸時代に宿坊が建ち並んだ門前の通りには、みやげもの屋や飲食店が軒を連ねている。門前の喧騒を抜けると、山寺の登り口へとさしかかるが、山頂まで1015段の階段が続く。階段を登り最初にひらけたところに、見覚えのある鐘楼が姿を現す。毎年末になると、NHKテレビは除夜の鐘を生中継しているが、この数年来、雪の山寺はほゞ定番になっている。昨年の大晦日もそうだったし、その前の年も確か・・・・。少し先になることだが、この暮れもまたこの鐘の音を聞いて、今回の「みちのく」を懐かしく想い出させてくれることだろう。

 根本中堂の西の位置に芭蕉と曾良のブロンズ像が建てられている。格好の写真スポットで、観光客が入れ替わり立ち代りしてシャッタ−を押している。最初からずっとこの佇まいを続けているように見えたが、実際には少し違う。芭蕉像は昭和47年(1972)の建立で、曾良像は「おくの細道」紀行300年を記念して平成元年に建てられたそうだ。今は古色も進み19年後のものだとは見えず、解説板がなければ全く気付かない。
「閑さや」の句碑 凝灰岩の山肌 寺の近くに建つ山寺芭蕉記念館
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