奥の細道 を巡る 市  振
今日は親知らず子しらず・犬もどり・駒返しなど云ふ北国一の難所を越えてつかれ侍れば、枕引きよせて寐たるに、
一間隔てて面の方に、若き女の聲二人斗ときこゆ。年老いたるおのこの聲も交りて物語するをきけば、越後の国新潟と云ふ所の
遊女成りし、伊勢参宮するとて、此の関までおのこの送りて、あすは故郷にかへす文したゝめて、はかなき言傳などしやる也。
「白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなし」と、
物云ふをきくきく寐入りて、あした旅立つに、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも
御跡をしたひ侍らん。衣の上の御情に、大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と泪を落す。不便の事には侍れども、
「我々は所々にてとゞまる方おほし。只人の行くにまかせて行くべし。神明の加護かならず恙なかるべし」と云捨てて出でつゝ、
哀れさしばらくやまざりけらし。  一家に遊女もねたり萩と月  曾良にかたれば、書きとゞ目侍る。
海岸へせり出して走る北陸道
海を見下ろす展望台で
海岸に立つ親不知の記念碑

 「けふは、親しらず子しらず・犬もどり・駒がえしなど云ふ、北国一の難所を越えて、つかれ侍れば・・・・」。芭蕉は市振の章段をこう書き出している。緑深い山々が、ここで下の海へストンと落ち込んでいて、北アルプスの北端だという。
 親不知・子不知の名の起こりには、いくつかの説がある。ひとつに波打ち際を通るときには、親は子を忘れ、子は親をかえりみるいとまもなかったことから「親しらず子しらず」だという。また一説では、今から800年前源平盛衰の昔、越後へ流された平頼盛(平清盛の異母弟)の後を追って、この地を通りかかった夫人が、二歳の愛児を懐から落とし、波にさらわれてしまった。悲嘆のあまり詠んだ歌が「親しらず子はこの浦の波まくら越路の磯のあわと消えゆく」であった。この歌からこの地を親不知・子不知と呼ぶようになったという。
 今も僅かに残る芭蕉が歩いたと伝えられる渚の崖には、荒波に侵食されて出来た大穴小穴が残っている。旅人は、岩の窪みに波宿りしながら走って、漁師言葉でいう「凪の波」を見計らって、その間に次の穴へ渡ったのだという。昔の旅人が苦労して歩いた渚の道も、現代ではこの地を高速道路と鉄道が駆け抜ける。
 関越道・信越道・北陸道へと進んだ今回の旅は、親不知 ICからトンネルばかりの高速道とは別れ、国道8号線を西へ向った。
早朝家を出る時は、出発をためらうほどのしゃ降りの雨だったが、すっかり回復して、日本海の素晴らしい眺望が眼前に拡がっている。先ずは恵まれた天候に感謝、感謝である。
曲がりくねった8号線の風波トンネルでは、先日の地震で被害を受けたのか、或いは災害に備えてなのか、断続的な工事区間が延々と続いた。かなりの大掛かりに見えて、この工事が終わるのは随分と先のことだろう。
 
 国境の宿場町・市振の集落の入り口に立つ、雰囲気のある一本松「海道の松」が印象的だ。越後から来た旅人には、やっと親不知の難所を抜けたという印。越中から来た人には、これからいよいよ難所へ向うという目印の松だった。海が荒れゝば通れない。越後へ向う場合、幾日もここへ泊まる羽目になったという。400mで抜けてしまう宿場には、当時人馬の宿や小さな旅籠が10数軒あったそうだ。芭蕉が泊まったと伝えられる宿・桔梗屋では、隣の部屋に伊勢参りに向う遊女が宿泊していた。わが身を歎く遊女の声を耳にした芭蕉は、翌朝、旅の道づれを請われる。遊女も我が身も同じ漂泊の身である。芭蕉は、その哀れさを「萩と月」の句に残した。     

         「 一つ家に遊女も寝たり萩と月 」
集落の手前にある長円寺の境内に、この句の碑が建っている。
 市振の関は重要23関の一つに数えられ、昔々、この村には「波見ばあさん」と「あらためばあさん」が居たそうだ。波見ばあさんは波を見て、親不知子不知が通行可能かどうかを判断する役目だった。また当時関所では、「入鉄砲と出女」を厳しく取り締まった。つまり江戸へ鉄砲を運び入れること、江戸屋敷から女が外へ出ることが禁じられた。あらためばあさんは、そのチェックをする役目だったという。
 関は北陸道に於ける越中との国境の要衝として、寛永(1624〜)年代のはじめに設置された。関所跡に立つ大木「関所榎」は、関所敷地内に植えられていたものだと解説されていた。
集落の入り口に立つ「海道の松」
長円寺に建つ「一つ家に・・・」の句碑
市振関所跡 「関所榎」の大木 海岸で見かけた巨大な海亀像
「山姥の里」碑
「山姥」の一節が刻ざまれた碑
 
 休憩に立ち寄った施設の観光案内で「山姥の里」が近いと知って向った。山姥の名に一瞬おどろおどろしい伝説を想像したが、これは全くの的外れだった。
 山姥は村の人達と仲良しだったので、いつも山から降りて遊びに来ていたという。過疎の小さな集落には「山姥の日向ぼっこ岩」や「金時のお手玉石」や、山姥を祭った「山姥社」などがあり、山中には山姥の棲家だったと伝えられる岩穴もあるそうだ。

 この里を舞台にして、謡曲「山姥」がつくられた。記念の碑が建てられて、親不知の絶景をたゝえた「山姥」の一節が刻まれている。
さて、「山姥」のざっとのあらすじだが・・・。
 京都に山姥の曲舞が上手な百萬山姥という遊女がいて、ある時、従者を連れて信州の善光寺参りに出かけた。途中、山中で日が暮れ、一人の女と出会う。女は二人に、自分が山姥であることを打ちあけ、遊女の曲舞で自分の迷いを晴らしてほしいと懇願した。遊女が謡おうとすると山姥は『夜が更けて月が出たら私もあなたの謡いに合わせて舞いましょう』と云って舞を舞った。ここで出あった山姥は、深山の霊気が凝ったような妖精で、山廻りの様を見せるという。
 
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