奥の細道 を巡る 那 谷 寺
山中の温泉に行くほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法王三十三所の順礼とげさせ給ひて後、
大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付け給ふと也。那智・谷組の二字をわかち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松植ゑならべて、
萱ぶきの小堂岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。         石山の石より白し秋の風
岩山を上方から見下ろす
岩肌の階段を登って
 
 芭蕉が実際に那谷寺を訪ねたのは、山中温泉逗留の後のことだが、小松からの道順では、この寺の方が手前になる。白根が嶽は加賀・飛騨の国境に聳える白山のことで、富士山・立山とともに日本三名山のひとつに数えられる。左手前方に見える筈だが、地理不案内の私には果たしてどの山がそうなのかは見分けがつかない。
 那谷(なた)寺の開山当時は、自生山岩屋寺と称したが、後に和歌山県の那智と岐阜県の谷汲山華厳寺からそれぞれ二字をとって那谷寺と名付けたという。眼前にそそり立つ岩山の岩窟内には千手観音が祀られている。岩肌を削って2尺幅ほどの階段が造られている。好奇心に誘われて登ってはみたが、降りる時が大変だった。手がかりのない岩伝いは、真っ直ぐ崖下へ向う感じがして、その侭落っこってしまいそうだ。何とか必死で下まで降りたが、思い出しても身がすくむ思いである。
 私が訪ねた時は紅葉には未だ早く、やっと色付きはじめたばかりだった。
            石山の 石より白し 秋の風
 
「石山の・・・」句碑 那谷寺境内 翁  塚
 
 大聖寺へ向う途中の山代温泉で、魯山人寓居跡(いろは草庵)の看板を見かけてぶらり訪ねてみた。北大路魯山人の名は良く聞く。その度にこの人の本職はいったい何だろうかと常々疑問に思っていた。書家?、陶芸家?、料理人?・・・。草庵の案内人から聞かされた魯山人と山代温泉に関わる話が興味深く面白かった。
 魯山人は本名を房次郎といい、明治16年京都上加茂神社の社家・北大路家の次男として誕生した。大正4年秋書家魯山人(当時福田大観)は、山代の旦那衆から温泉旅館の刻字看板製作を依頼され、吉野家旅館の食客として迎えられた。吉野家旅館から提供された別荘がこのいろは草庵で、公開されている部屋は当時の侭だそうだ。ここで製作した窯元・菁華窯の刻字看板の出来栄えが、窯元の主に気に入られ、仕事場への出入りを許される。魯山人は絵付けを体験し、次第に陶芸に魅せられていったという。また山代の湯の曲輪の旦那衆は、別荘(いろは草庵)の魯山人を訪ね、美術談義に華を咲かせ、茶会を楽しんだそうだ。旬の加賀の食材は、魯山人のすぐれた味覚をより鋭敏にさせ、魯山人は加賀の料亭で懐石料理を学んだという。
 魯山人が彫った看板は、現在山代温泉には7枚が現存する。吉野家の看板は蔵の中に陳列されているが写真撮影は禁止である。唯一街中で見られるのが「菁華」だということで、刻字看板の架かる陶器店へも廻ってみた。右の写真が魯山人が彫った菁華の看板。
山代温泉・あし湯 魯山人寓居跡 いろは草庵の中で
next