奥の細道 を巡る 全 昌 寺
大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地なり。曾良も前の夜此の寺に泊りて   終宵秋風聞くやうらの山  と残す。
一夜の隔て千里に同じ。吾も秋風を聞きて衆寮に臥せば、明ぼのゝ空近う、読経聲すむまゝに、鐘板鳴つて食堂に入る。
けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追ひ来る。折節庭中の柳散れば、
庭掃きて出でばや寺に散る柳   とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。
全昌寺境内
芭蕉木像

 山中温泉から全昌寺がある今の加賀市大聖寺は凡そ8Kmの道のりである。芭蕉はこの寺で一泊するのだが、日帰りも出来そうなこの近くへ何故?と思ってしまう。が、実際に芭蕉が旅した行程は、山中温泉をを出発して那谷寺へ立ち寄り、更に小松で宿をとった後大聖寺へ向っている。
 境内の一隅に芭蕉塚や芭蕉・曾良の句碑などが建てられている。本堂の入り口には「ご自由にお入りください」の表示があるきりで全くひと気もない。本堂と廊下伝いに繋がれた建物に、展示室があり芭蕉ゆかりの品々が並べられていた。やはり訪ねる人が多いのか、ギャラリ−は寺にしてはお洒落な喫茶室の模様で、軽食のメニュ−が貼られている。コ−ヒ−でもと思ったのだが、わざわざ寺の人の手を煩わせるのも気の毒に思えて止めにした。それにしてもよそ事乍ら、このひと気の無さは気にかかる。大事な展示物が盗まれでもしたら大変だろうに、否、ただ一人拝観受付で顔を合わせた女性は、私たち夫婦の顔つきから、安心しきっているのだと勝手な解釈をして、のんびり堂内を見て廻ることにした。

     終夜(よもすがら) 秋風聞くや うらの山       曾良

     庭掃いて 出でばや寺に 散る柳          芭蕉
庭掃いて・・・ 芭蕉句碑 芭蕉塚 終夜・・・ 曾良句碑

     「奥の細道」出発直前に書かれた芭蕉直筆の手紙が発見された。

 11月4日付朝刊で、朝日と日経の紙上に興味深いニュ−スが報道された。記事によれば、芭蕉が「奥の細道」の旅へ出発した二ヵ月前、同行者に決めていた門人の路通が急に関西へ旅立ったため、ショックを受けて悲しみに暮れていた様子が書かれ、国文学の専門家が芭蕉の自筆に間違いないことを認めたとある。

 手紙は縦22.5cm、横50.5cm。宛名の「金右衛門」は江戸の親しい武士とみられる。手紙が書かれたのは、旅に出る二ヵ月前の元禄2年閏1月20日(1689年3月11日)3日前の17日旅に同行する予定だった門人の路通が突然江戸を去り、「昨日より泪落しがちにて、忘々前と・・・」などと、悲しみに暮れる心情が吐露されている。

 実際の旅は別の門人の曾良が同行した。路通が江戸を去った理由は書かれたいないが、路通が自分勝手に芭蕉のもとを去ったのであれば怒るかも知れないが、芭蕉はショックを受け悲しんでいる。芭蕉から才能を認められていた路通がほかの門人たちからよく思われず、門人たちの間で何らかの軋轢があったようだと推測されるそうだ。

 この手紙は、山形県の山寺芭蕉記念館で開かれている企画展「芭蕉・蕪村・一茶」で16日まで公開されているそうだ。
 山寺の前を流れる川の小高い対岸の丘に建ち、眼前の山寺を一望できる記念館を訪ねた折のことを、懐かしく思い出している・・・。
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