奥の細道 を巡る 汐越の松・天龍寺・永平寺
曹洞宗開祖・道元禅師の「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さへて冷しかりけり」の歌が刻まれている。
唐門の前で
祠堂殿内部
紅葉は未だ始まったばかり
吉祥山 永平寺
 道元禅師によって開かれた曹洞宗の大本山・永平寺。修行の中心となる建物・七堂伽藍(山門、仏殿、大庫院、法堂、僧堂、浴室、東司)のすべてが回廊でつながれている。現在も完全な状態で残るのは希少だという。
 実は我が家も曹洞宗なので、亡父母も祖父母もこの永平寺へ納骨している。だから私にとって、本山永平寺をお参りすることは、ふるさとの墓参りとはまた違った感慨を受けるのである。
観光バスなどが到着する前に、境内が静かなうちにお参りを済ませたい。そんな思いもあり、前日の宿は寺に近い永平寺町に決めた。翌朝、早い朝食を済ませて此処へ向かったので、朝日が差し込む静かな境内が、長旅の疲れを癒し、清々しい気分にさせる。
 伽藍を案内してくれたのは、この3月に入門したという若い修行僧だった。早朝だったこともあり、ご一緒したのは愛知から来た男性一人と、埼玉から夜行バスで到着したばかりの男女、それに私たち夫婦の5人だけである。案内役の修行僧は、大勢の団体さんではないから遠慮なく、気楽に何でも聞いてくれという。
 回廊を進み、山門の処へ差し掛かった時、早速に注意を受ける。ここから一歩でも足を踏み出してはいけないという。山門を出入りできるのは禅師ただ一人であり、例え修行僧と言えどもここを通行できるのは、入門と下山の2回だけだそうだ。
 初めて山門をくぐった日、先ず最初の試練が待ち受けていた。
未だ3月では、山門の前に雪が残っている。入門志願の若者たちは、ここで延々1時間以上も待たされたそうだ。もちろん入門予定の日時は前もって届けてある。ヤレヤレ大分話が違う・・・と思いながらも彼らには、じっと耐えて待つ外に成す術はない。
 寒い中で、さんざ待たせられた挙句、やっと顔を見せた先輩僧との問答が始まった。『何をしに来たのか!』。『修行ならば永平寺でなくとも出来るではないか!』。こうして入門を許された者だけが、山門をくぐり若い雲水たちの修行が始まるのである。
 こうして参拝者を案内するのも修行のひとつで、入門した雲水は法事を行う役、ご朱印を扱う役、受付等々のお勤めが決められる。どう呼ぶのかは聞きそびれたが、俗世間で言う配置変えがあるのは勿論のことだ。僧堂・東司(手洗い)・浴室は三黙道場といって一切の私語が禁止される。案内役の若い修行僧は、学生時代に体育会系に属していたそうだ。先輩後輩関係に喧しい体育会系でも、入浴時だけは先輩と雑談できて、ほっとするひとときだった。だが、ここでは黙々と入浴を済ませなければならない。確か四と九の付く日を、安息日だったか休息日と言ったように思う。入浴も髭を剃るのも、この日だけだという。当初は随分と戸惑いがあったようだ。食事のこと、座禅のこと、日ごろ耳にすることもない別世界の、諸々の体験談に興味は尽きない。
 本山への納骨は個人個人で訪ねることもあるが、寺毎の団体で訪れることもある。私のふるさとの寺では、2年に一度納骨の檀家を募り、団体バスを仕立てているようだ。
 ふっと、いつの時代から始まったのかを知りたくなった。受付の若い雲水に、住所と名前から我が家の一番古い納骨が分かるかと尋ねてみた。その僧から、調べれば分かると思うが、自分が知っているのは明治になってからのもの、との返事が返ってきた。
 何の根拠もない当てずっぽうだが、万一病気などで行き倒れてしまっても、その地のしきたりで始末してほしい・・・維新に近い幕末の頃になっても、こんな往来手形を携えて旅に出た。この頃では納骨など出来る筈もない。やはりそれ程古いことでもなさそうだ。
  「終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」
西行法師の歌に芭蕉は、この一首に汐越の松の数々の美景は表現し尽くされている。これに一言でも付け加えることは全く無駄なことだ・・と記している。だが、これらの松らしいものの現在は、ゴルフ場の敷地内に僅かに残っているだけらしい。詳しいことは知らないが、ここは素通りして丸岡天龍寺へと向かうことにした。
テレビ放映除夜の鐘で馴染みの鐘楼堂
報恩塔(納経塔)
回廊から左:中雀門と右仏殿
東龍寺
本堂の中で


 天龍寺に到着した途端、「余波の碑」が大きく目立つのが見えた。歌碑句碑などは、寺や神社の目立たない一隅で、探し回ってしまうことも多いのだが、この寺は違った。「なごりの碑」「よはの碑」どちらの呼び名か分からないが、前庭にド−ンと建てられて、本堂よりも目立って見えてしまう。
 芭蕉が宿泊した天龍寺に、ちょっとその辺まで見送りましょうと言って、見送りに来た俳人北枝との別れの場面の像である。
先に曾良と別れ、続く北枝との別れに芭蕉が詠んだ。

       「 もの書きて扇引きさく余波(なごり)哉 」

 「扇引きさく」というのは、芭蕉の発句の書いてある部分を北枝が、北枝の脇句の書いてある部分を芭蕉が、それぞれに「引きさ」いて分け持つこと、解説書に書かれている。
 北枝は、通称を源四郎といい、小松生まれで金沢の住人で、研師を業にしたという。
越前の境、吉崎の入江を舟に棹さして、汐越の松を尋ぬ。  終宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松 西行
此の一首にて数景盡つきたり。もし一辨を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。
丸岡天龍寺の長老、古き因あれば尋ぬ。又金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて、此の處までしたひ来る。
所〃の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既に別れに望みて、 物書きて扇引きさく余波哉
五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避けて、かヽる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有りとかや。
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