奥の細道 を巡る 福  井
福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出づるに、たそかれの路たどたどし。爰に等栽と云ふ古き隠士有り、
いづれの年にか江戸に来りて予を尋ぬ。遥か十とせ余り也。いかに老いさらぼひて有るにや、将死にけるにやと、
人に尋ね侍れば、いまだ存命して、「そこそこ」と教ゆ。市中ひそかに引入りて、あやしの小家に夕がほ・へちまのはえかゝりて、
鶏頭はゝ木々の戸ぼそをかくす。さては此のうちにこそと、門を扣けば、侘しげなる女の出でて、
「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此のあたり何がしと云ふものゝ方に行きぬ。もし用あらば尋ね給へ」といふ。
かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかゝる風情は侍れと、やがて尋ねあひて、その家に二夜とまりて、
名月はつるがのみなとにとたび立つ。等栽も共に送らんと、裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立つ。
越前海岸の眺望
左内公園・等栽宅跡
 芭蕉は福井で、古い知人の等栽を訪ねた。芭蕉と等栽が江戸で会ったのは10年以上も前のことだから、老いぼれてしまったか、或いは又死んでしまったかと人に尋ねると、存命中だと言われ再会を果たした。
 福井市内・左内公園の奥まった場所に、洞哉(等栽)宅跡がある。
洞哉の住んでいた家の正確な場所ははっきりとしていませんが、俳人石川銀栄子氏の研究から、洞哉が芭蕉の枕にと木片を借りたお堂が、左内町の顕本寺に建てられたことが明らかになり、この付近に住んでいたことがわかりました。・・・と解説されている。


 好天に恵まれて海岸線へ出てみたくなった。だが考えてみれば、片山津・粟原・東尋坊方面へは何度も行ったことはあるが、越前岬まで足を伸ばしたことは一度もない。向かってみてわかった。この辺りの人には叱られるかも知れないが、な-んもない所だ。夏の間やスイセンの時期には賑わうのだろうが、この季節では行き交う車もまばらである。岬灯台も生憎の工事中で立ち入り禁止だったが、眺望の利いた海岸線のドライブだけは快適だった。
 食べ物屋などの立ち寄り先も余りなく、やっと大きなカニの看板が目だった「かに八」を見つけ昼食のため飛び込んだ。丼ものにしては少々値の張る「カニ丼」は、値段だけのことはあってやはり美味かった。
 敦賀へ向かう海岸線のドライブウェイが、つい最近無料化されたように書かれた看板があり、少し得したような気分がして、ことさら景色が良いように感じさせる。
越前岬灯台
芭蕉塚

 越前海岸の小さな漁港・梅浦で、海岸線へ出る直前の道路脇に「芭蕉塚」の案内を見つけ、?と思って立ち寄った。
 私の見落としなのか寺の名前も書かれてなく、本堂の戸も固く締め切られて、どうやら無人寺のように見えた。が、古い墓が並んだ中に新しそうな墓も幾つか混じっている。本堂の裏手にある筈の芭蕉塚を探したのだが、いくら探しても見つからない。ウロウロしているのを見咎められたか、寺の前の家から出てきたお年寄りに突然声をかけられた。爺さんはしきりに『家の前へ車を停めたのがどうこうではない』と繰り返すので話は一向に前へ進まない。どうやら車を家の前へ停めたことの文句と、間違われないように用心したようだ。
 爺さんは寺の文献を纏めて印刷物にしたという。私の車の横浜ナンバ−を見て、若しや自分が書いた冊子を読んだこの地に縁のある人が、無縁仏となっている墓を探しているのではないか・・・、私たちがそう見えたようだ。
 正面からは行き止まりに見えたが、爺さんに教えられた本堂横の狭い隙間を抜けて、芭蕉塚は直ぐに見つかった。
・・・18世紀初め、西応寺(この寺は西応寺というらしい)の住職となった梅紅法師は、この地の有志の人たちに俳諧の道を広めた。西行や芭蕉の跡を踏んで、全国行脚の旅に出る前にこの芭蕉塚を建立した・・・。古い塚の横に、こんな意味のことが書かれていた。
next