奥の細道 を巡る 敦  賀
「遊行上人お砂持ち神事」の像
旅姿の芭蕉像

 芭蕉が夜参りに訪れた気比神宮では、14日の月が格別に晴れ渡って美しかった。が、15日は宿の主人の言葉通りに雨が降ったという。
   「 月清し遊行のもてる砂の上 」
                  「 名月や北国日和定めなき 」
 気比神宮大鳥居前交差点の向かい側に「遊行上人のお砂持ち神事」のモニュメントが見える。遠目に見たとき、一体何だろう?と思ったのだが、解説を読み内容と句の意味が解った。
 時宗2代目遊行上人が敦賀に滞在した折、神社の周りが泥池、入り江のため参拝客が難儀しているのを知った。上人自らが先頭に立ち、僧侶や大勢の人たちと共に、浜から砂を運んで改修を行ったことに因んだ神事だという。今日まで、時宗の大本山遊行寺管長が交代したときに、この神事が行われているそうだ。
 正面に構える大鳥居は、日本三大木造大鳥居の一つに数えられ、国の重要文化財に指定されているという。途中立ち寄った気比の松原は、日本三大松原の一つだそうだ。なるほど松原と綺麗な砂浜は素晴らしい眺めである。これ程の所では夏の期間には大渋滞してしまうだろう、人ごとながら余計な心配をしてしまう。
 相生町商店街のア−ケ−ドの下に、芭蕉逗留の宿・出雲屋跡がある。石柱と解説文があるが、注意して通らないと見落としてしまいそうだ。出雲屋の主人弥一郎が芭蕉に先の神事のことを教え、芭蕉は笠と杖を残して行った・・ざっとこんなことが書かれていた。
重文指定の大鳥居 芭蕉翁杖跡の碑と月清しの句碑 芭蕉像裏から気比神宮へ向かって
市民文化センタ−に建つ句碑 気比松原の砂浜 気比の松原

 金ヶ崎城址(別名敦賀城)の見物は、出かける前からの楽しみだった。観光案内には、信長・秀吉・家康・利家勢ぞろいの地と書かれている。元亀元年、織田信長は越前朝倉攻めの折、浅井氏の寝返りに遭い窮地に陥った。信長はしんがりを努めた秀吉の大活躍で、九死に一生を得た。
 敦賀市北東部、海抜86mの敦賀湾に突き出した金ヶ崎山に築かれた山城の、その歴史は古い。源平合戦の頃、平通平が木曾義仲との戦いに備えて城を築いたのが最初と伝えられるそうだ。南北朝時代には、新田義貞が足利軍と戦った古戦場跡でもある。
 本丸跡だとされる「月見御殿」で戦国の武将が月見をしたという。展望台からは、眼前に敦賀湾を一望する絶景が広がっている。ここに立ってみると、崖上に三方が海で、自然の要塞に囲まれた山城の位置関係が良くわかる。
 金崎宮で売られているお守りは珍しい。なんと「難関突破 開運招福」と書かれたお守り袋の両端が白い紐で結ばれている。一見、進退極まったと錯覚しそうだがそうではない。信長の妹お市の方は、浅井氏裏切りの危機を知らせるため、両方を紐で結んだ袋へ小豆を入れ、陣中に届けさせたという。お市の方ゆかりの、難関突破のお守りだそうだ。
 途中立ち寄った鐘塚は、芭蕉が訪れた折「月いづく鐘は沈めるうみのそこ」と詠み、後にこの塚が建立されたという。    
金ヶ崎城址から展望する敦賀湾
山頂に建つ「金崎古戦場跡」の碑
金崎宮 山頂の「金ヶ崎城址」の碑 月いづく鐘は・・・の句碑・鐘塚
補修工事中の西福寺本堂
西福寺庭園・紅葉には未だ少し早い

 敦賀市街の西、大原山麓に建つ西福寺は、浄土宗では北陸きっての名刹で、1400坪の書院庭園(国の名勝)は、江戸中期の作という。またこの寺は、応仁の乱を避けて都から移されたという重要文化財の絵画や書も多く所蔵されているそうだ。
 境内へ一歩入ると、真新しい柱が何本も立てられて、本堂の屋根を支えているのが目立つ。周囲の屋根も建築用資材が組まれ、屋根を支えている。永年の風雨や積雪の重さで、軒が下がってきたのだという。このまま損傷が進むようだと、重文指定の取り消しとも成りかねない、と文化庁から言われたそうだ。どうにも見て呉れが悪いが致し方ないという。
 書院の修復工事が行われて間もないようで、襖いっぱいに書かれた大字に『どなたの書ですか?』と尋ねたことがきっかけで、住職さんらしい人との話が盛り上がった。『聞かれたから話すが、普段自分から話すことでもないが・・・』。書院の中の書や絵画は、修復を機に地元の書家・画家に頼んで制作されたもので、元からあったものは別のところに保管してある。これは地元の人には歓迎されたのだが、当然文化庁からはこれでは不味いと言われたそうだ。技術の進歩でオリジナルと寸分違わぬ摸作品はできるが、頼み込んで制作してもらった作品を撤去することも忍びない。費用の面もそうだが、義理もこれあり頭の痛いことだという。ざっくばらんに次々と繰り出される内輪話や苦労話が面白く、すっかり長居をしてしまった。
漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出でにけり。
鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越ゆれば燧が城、かへるやまに初雁を聞きて、十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。
その夜、月殊に晴れたり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、
あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入りたる、
おまへの白砂霜を敷けるがごとし。「往昔遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈り土石を荷なひ、泥渟をかはせて、
参詣往来の煩なし。古例今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持ちと申し侍る」と、亭主のかたりける。
月清し遊行のもてる砂の上  十五日、亭主の詞にたがはず雨降る。  名月や北國日和定めなき
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