奥の細道 を巡る 色の浜(種の浜)
十六日、空霽れたれば、ますほの小貝ひろはんと、種の濱に舟を走す。海上七里あり。
天屋何某と云ふもの、破籠、小竹筒などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに着きぬ。
濱はわづかなる海士の小家にて、侘しき法華寺あり。爰に茶を飲み酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ感に堪へたり。
寂しさや須磨にかちたる濱の秋 浪の間や子貝にまじる萩の塵 其の日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。
本隆寺
西行法師「潮染むる・・」の歌碑

 芭蕉が船で渡った「色の浜」へ、くねくねと曲がりくねった海岸線の道を進む。色ヶ浜の看板を見て波打ち際へ向かうと、浅瀬に囲まれた二つの小島が見える。潮の時刻は分からないが、干潮時には更に砂浜が広がるのだろうか。現在の地名は色ガ浜だが、古くは種の浜と書いていろのはまと呼んだ。
 集落の入口に本隆寺があり、お堂の左手の空き地に句碑や歌碑が並べられている。「侘しき法華寺」とは、この本隆寺のことで、今もその日の日記が寺に残されているそうだ。
       「 潮染むるますほの子貝拾ふとて
             色の濱とは言ふにあるらん 西行 」
西行法師ゆかりの地で芭蕉が詠んだ。
       「 寂しさや須磨にかちたる濱の秋   芭蕉 」
 神戸支店に勤務していた頃のことを思い出す。尤も私が住んでいたのは昭和50年代初めの頃だが、何度か須磨の海岸へ行ったことがある。今では余り珍しくもないが、砂浜に面した公園がきれいに整備されていて、当時としては随分と手入れが行き届いて明るい印象を受けたことを思い出す。

 
本隆寺:寂塚 静かな海岸で 常宮神社


 色が浜へ向かう途中にある常宮神社へ寄った。古い芭蕉の句碑の隣に「国宝・朝鮮鐘」と記された碑が目立っている。慶長年代、敦賀城主大谷吉継が豊臣秀吉の命により奉納したと伝えられるが異説もあるらしい。刻まれた碑文から新羅時代の朝鮮鐘であることがわかるそうで、国宝指定のお宝は収蔵庫に収められているという。
 本殿から後ろを振り返ると、鳥居越しに敦賀湾を見渡す拝殿が見える。特別に立派というのではないが、普段水上に向かった建てられている拝殿などを見ることもないので、随分珍しい風景に思えた。
 境内の小さな机の上に乗せられた浅い小箱に、きれいな貝殻や木の実・草花の種などが並べられ「ご自由にお持ちください」の貼り紙があった。たったこれだけのことだが、ほのぼのとした心遣いがうれしい。マスホ貝も並べられ、横幅でもせいぜい5〜6ミリ程度と小さい。花壇の手入れをしていた神社の人に尋ねると、もう立派な大人の貝でそれ以上に大きくはならないという。

 きれいな砂浜と、穏やかな湾内の眺望に誘われ、波打ち際へ出て小休止した。砂浜で腰を下ろしのんびりしているうち、やはりマスホ貝を探してみたくなる。手で砂を掻きはじめた時、母親らしいお年寄りとご婦人の二人連れが浜へ降りてきた。他に人影のない砂浜で、二人は盛んに何かを探している。マスホ貝を探しているのだろうか。
「あった!」。ようやくマスホ貝を見つけた時、二人連れは私の近くまで来ていた。私は少々誇らしげに 『 ありましたョ!』 二人に見せたのだが、帰ってきた言葉は予想もしないものだった。
『 何ですの?それ!』。???私はてっきりマスホ貝を探しているものとばかり思い込んでいたのだが・・・どうやら二人は貝殻だか小石を探していたのだ。私はこの手の早とちりをしばしば繰り返すのだが、どおって事もない。どうせ旅の恥は掻き捨てだ。
拝殿の前に敦賀湾が広がる
ますほ貝を見つけた
きれいな砂浜が広がる海岸
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